小説 短編集.10
□元カレ
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“剛、”
名前を呼ぶ声に立ち止まって剛が振り向いた。
「あ…、」
視線の先にスーツを着た男が1人。
前を歩いていた光一も、出した足を踏みとどめて剛の方へ向き直る。
「な、ん?なんで?」
「あ、ごめん、」
男が慌てて片手を振った。
つい、名前を呼んでしまったのだとか。懐かしいシルエットだから。呼び止めてから男がハッとする。申し訳なさそうに笑った。
男が歯に噛んだあと剛の方を見た。
「変わらないね、」
「ん、…ぅ、ん、」
光一が2人を交互に見る。
妙な雰囲気の剛と、照れ臭そうにする男。剛と光一よりかいくらか歳の若い男だ。
光一が剛の隣に寄り添う。
気付いた剛が微笑みかけて肩を竦めた。
「なに?知り合い?」
首を傾げる光一に剛がむぅっと唇を突き出した。とても可愛い顔なのだ。男と光一が思わず口元を崩す。
ハッとした男が頭を下げた。
軽く自己紹介をした後、ちらちらと剛を見る。
その視線に気づいて剛が一度目を伏せる。そのあと光一の方を見上げた。
「ん、…むかし、つきあってた、」
むかしのおとこ。
かれし。
ぼそ、ぼそぼそっと聞こえた言葉に光一がわずかに固まった。
「……へ、?」
し、知らん、ぞ…。
そんな話は…。光一が続けた言葉に剛が恥じらいながら頷く。
「やって、もっと若い、とっても若い頃やから…、」
昔、昔の話。
なんせ付き合っていたのは20代前半の歳若い頃。交際期間もほんの一年程だ。剛の説明に光一がぎょっとする。
いやいや、首を振るけど、ハタと若い頃の剛を思い出す。
そうか、奇抜だったあの時期。今でこそその奇抜さも板について来てるがあの時は妙な違和感があった。
「あの時と、…剛、全然変わらない、」
「んふ、そぉ?」
ずっと可愛いままだ。
また、男が続ける。“剛”と呼ぶ名前に光一がぴくっと片眉を上げる。
「昔の剛も可愛いけど、今の剛はもっと可愛い、」
エクボを見せて微笑む柔らかい目元。ありがとうね、微笑み返す剛もまた柔らかくて、光一の顔が少しだけ引き攣る。
剛?
つよし?
光一が首を傾げる。呼び捨ての違和感にムッとしながらそうか、付き合ってたからな。呼び捨てだよな、そら。
光一が額を掻きながら納得した。
「…剛。」
光一が名前を呼ぶ。
剛が大きな瞳で光一を見上げた。
「んぅ?」
見上げるその身体を腰から抱いて何でもない、と首を振る。ちらっと男を見たら視線が剛を見たあと、直ぐに光一の手元に移動した。
じっと見る光一に気付いて視線を外す。
腰を抱かれるのに慣れすぎてる剛も思わずハッとして光一から離れる。
男に一歩近付くから、光一も追いかけるように一歩前へ。
「なんで、ここにおんの?」
「あ、そうそう。最近、テレビ業界がさ、」
BPOが何ちゃら、コンプライアンスがどうの男が話し始める。規定や法律が厳しくなってきたから、そんな理由でゲームの罰ゲームの仕様少し変える必要があるのだ。
前までは痛みを伴うものが大きかったが、今じゃ身体にいいお茶やら、足ツボやらと、その変化に合わせて何か良い商材はないか、男の会社に連絡があったのだ。
営業を担当していた男が、楽しくてポップな商材の提案にきた。今日はその帰りだった。
「そぉなんや、」
「そう。だから、こんな所で会えるなんて、」
男が嬉しそうに笑う。
元気そうだね、問いかける声に剛がゆっくりと頷いた。
2人の会話を聞きながら光一がその場に居た堪れなくなる。気まずいな、ふとそんなことを思いながら離れる気にもなれず。
昔話に花を咲かせる2人を交互に見た。
しばらくその場にいたが、結局呼びに来たマネージャーに連れられて踵を返した。
隣を歩く剛がのんびりした声音で目の前のマネージャーと話してる。昔、付き合っていた人なのだと、そんな風に男を紹介したからギスッとした妙な鈍い音が光一の心臓を掴む。
驚いたマネージャーが、チラリと光一を見る。が、反応はあまり得られずもう一度視線を剛へ。
通された控え室でも光一は妙に悶々していた。
どこまでの付き合いだったのか。一年程、そんな長い期間…。目を閉じて腕を組みながらあらぬ思考が脳裏を掠めては掻き消す。
別れ際、男が剛に名刺を渡していた。
今度、タイミングを合わせて食事に行こう、と。ふわりと笑って頷いた剛に心無しかムッとした。
そんなもの、社交辞令紛いの一環だと分かっていてもやっぱり気になるのだ。
目を開けた光一が、自分の顔をじっと覗き込む剛にギョッとして息を呑む。
「んふ、なぁに?気になってるん?」
「いや……、元カレって、……、」
そんな妙な紹介の仕方をするから。
それなら、光一のことだって今の彼氏ですって紹介してもよかったのでは無いか。
そんな疑問も過ぎる。
言えた口では無いが。
押し黙る光一を剛がじっと見つめる。
「でも、元カレやけど…もう、ほんまにすごい前すぎて忘れた、」
どんなお付き合いしてたかなぁ?
剛が視線を右へ左へずらす。うー…ん、と唸る剛を光一が眺める。
二人初めての夜のあの日、男は初めてなの、剛がもじついて頬を染めていた。
初めて、じゃなかったのか………。それは光一だって男は剛が初めてだった。だから懇切丁寧にあらゆる媒体を通して勉強したのだ。何度もゆっくりと剛の身体を開いていった。
全ての障壁を超えて愛し合ったあの夜は今でも忘れていない。
初めてだった割には、光一を彼氏にするのは案外あっさりだった気もする。
確かに、いいよ、って簡単に言った剛を思い出してあの日少しだけ違和感を得たのを思い出す。
「初めて、ちゃうかった…んやん、」
「んぅ?」
「……お、男…、」
「うん……、」
昔ね。
とても辛かった時期で。
どうしようもなかった。
たまたま、仕事の関係で出会ったのがあの男なのだと。剛が少しだけ光一に寄り添う。
「……俺やって、側に…、」
おったやろ。
言いかけて光一が黙る。一拍おいて剛がくすっと笑った。
「やって、あの時、お前に彼女居ったよ、」
舞台も始まってまだ、大変そうやった。
そんな中で辛い、苦しいなんて吐き出すことは出来なかった。
出来なかったけれど仕事のたびに剛の姿は光一だって見てきたのだ。
支えられないもどかしさも確かにあった。
今ほど柔軟な世の中ではなかったから。
「そ、うだな…、」
彼女居たでしょ?
聞かれれば光一だって返す言葉はないのだ。戸惑いを隠して視線を下へ向けた。
いたけど。
形だけだった。
今更言葉にしたってどうにもならないから、わかっている光一は飲み込んで頷くだけだった。
「そんで、付き合い始めた…?」
「んぅ、そう。」
「き、きす…とか、も…?」
恐る恐る聞く光一に剛がふふっと笑う。どうだったかなぁ。ぼんやりと流すような返答にそれ以上先は聞けなかった。
ーーーー
「あ……、」
スタジオの入り口ですれ違った見覚えのある男。光一に踵を止めて振り向いたら、気さくな笑顔で男が頭を下げた。
「剛の……、」
元カレ…。
言いかけて飲み込む。無理やり言葉を繋いで、その節は剛がお世話になりました、軽く会釈のような挨拶を交わした。
「いえ、…こちらこそ、」
「今は、」
「はい?」
男が言いかけて、黙る。
光一をじっとみたあとまた、言葉を続けた。
「今は、ひとり…?、居ないんですか…、ね?」
どこか疑問符を付けた言葉に光一が首を傾げる。男が、剛、恋人は…、ここまで聞いて光一がゆっくりと頷いた。
「あぁ…、」
なんで、俺に聞く?
「…どうですかね、…はは、」
適当に返してから、男が慌てて手を振った。
そうですよね、すみません。早口に述べたあとそのまま、頭を下げた。
踵を返して、離れていくのを見送って光一が深く息を吐いた。
「……言えば、良かったかな、」
俺だよ。
俺だし。
小さな言葉はポツリと落ちていった。
言えなかったのは、いつもの秘密が邪魔をしたのか、剛の元カレの存在に威圧されたからか。どちらにせよ、光一は憂鬱な気分で前室に入っていった。
ーーーー
ふふっと笑う剛が隣で肩を揺らしている。
これがこうで、あれがああで。
数人のスタッフと束になって雑誌を捲る。あれから、元カレの話はできないまま。
なんとなく気が引けた。
聞きたいけれど、守りたかったあの日の剛を光一は守れなかったのだ。そんな引け目も何処かで燻っている。
「ねぇって、聞いてた?」
肩を押されて光一がハッとする。
剛の方を見て、我に帰るとムッとした顔が頬を膨らませてる。つい、口元が緩んでしまう。何度も呼んだのに、ぶつぶつと不機嫌な顔。
「んは、なによ、悪かったって、」
なに?どうした?
覗き込んで、見つめたら上の会議室で打ち合わせがあるのだと剛がつぶやく。
少し遅くなるから先に帰ってて、上目で首を傾げる姿にくらっと来た。魔性め。内心で光一が思う。頷いたのを確認して剛がマネージャーと出ていった。
「は?」
素っ頓狂な光一の声が打ち合わせ終わりの会議室に響いたのはその日の夕方。
スポンサーとの挨拶を終えたチーフが戻ってきてから直ぐに、噂で聞いていた剛の元カレの話を始めた。
剛をスタジオまで送り届けたマネージャーが少し不安そうに瞬きを繰り返す。
会うはずもないと思っていた男がプロジェクトに参加していたのだ。例の楽しい商材のお知らせに、剛のスポンサー側が依頼を掛けていたのだ。
剛も驚いていた。まさか、また会うとは思っても居なかったから。少しだけ談笑して、昔話に花が咲いた。
そんな流れで、男が剛をディナーに誘ったのだ。
「え、いつ?」
努めて冷静を装う光一が、顔を上げたあと窓の外を見た。
ぱらっと手帳を捲って、来週です、とチーフが答える。光一の視線が挙動不審に揺れる。
「ほんまに?」
もう一度、答える。
ディナーに誘われた?
社交辞令じゃなくて?
ほんまに?
聞き返す光一にチーフがもう一度頷く。
「ほん……で?」
返された言葉に相槌を打ったあと、光一の切り返しに棘が篭る。今度は話していたチーフが挙動不審に視線を揺らす。
「…取り敢えず、行くらしいです。」
隣のマネージャーが、静かな声で呟く。
ハッと息を飲んだあと光一が深く息を吐いた。音のない空間。
耳の奥で自分の鼓動だけが響いた。
マネージャー付きの会食らしいですが。
付け加えられた言葉は光一には届かなかった。
ーーー…to be continued ーーー