そよぐ風が紙の上を滑り抜け、戸口の筵を静かに揺らす。
 それに攫われぬよう端を押さえながら、かごめは続けて筆を走らせた。
 今日は朝からからりと晴れた、穏やかな日和だった。
 紙の端から端までを文字で埋め尽くすと、かごめはようやく筆を置く。
 そしてひとつ息をついて、揺れる筵の向こうをふと眺めた。
 少し遠くで柔らかな陽が降り注ぐ緑は、晩春に植えた稲たちだ。
 もうすぐで綺麗な黄金色の絨毯が臨めることだろう。
 かごめが舞い戻りほどなくして、賑やかしい空気のままに泥まみれになる村人たちを、子どもらに囲まれながらかごめは微笑ましく見つめた。
 その中で共に汗をかく犬夜叉の頬についた泥を拭ってやった記憶も、まだ新しい。
 壁に凭れる犬夜叉に目を遣りながら、かごめはふとその時のことを思い出した。
 まだ楓の庵に身を寄せていたあの頃。
 かごめが笑いながら拭ってやると、その口元はへの字に曲がり忙しなく視線が移ろった。
 何やら照れたような落ち着かないような様子を間近に見ながら小首を傾げると、目の前の唇が静かに名前を形作る。
 かごめ、と。
 数えきれぬほどに呼ばれていたはずなのに、初めて聞いたようなその音にかごめはぴたりと手を止めると、吸い込まれそうな黄金の眼を見つめた。
 僅かに躊躇った気がした唇は、うっすらと熱を湛えていた。
 結局は簾の向こうから聞こえた咳払いと楓の姿に、ふたり慌てて視線を反らすしかなかったが、頬に添う手のひらの熱さや瞳の深さを思い出し、その身を焦がしたのはきっと、かごめだけではないだろう。

 かごめは一気に熱くなった頬を包み込み、ほぅと息をつく。
 ちらりと見た犬夜叉は、まだ静かに目蓋を伏せている。
 結ばれた唇はあの時のように名前を紡ぐだろうか。
 かごめはそぞろとした気持ちを覚えて、逡巡しながらもそぅっと近くへと身を寄せた。
 手をつき、膝を進めるたびに小さく軋む床板。
 鋭い犬夜叉のことだ。きっとかごめが頬を熱くしたときから気づいているだろう。
 それでいて、まだ目蓋を伏せている。
 かごめは犬夜叉の側までにじり寄ると袖を摘んだ。
 
 「犬夜叉」

 そして少しばかり抑えた声で呼び掛ければ、黄金色がゆったりと零れるように目蓋が上がる。

 「どうした?」

 「ん、」

 傾げた首に答えるように今度はかごめが目を瞑った。
 少しばかり上を向き強請るように。
 つい今しがたまで手習いに精を出し、自分のことなど見向きもしなかった妻が、今はこうも可愛く誘っている。
 ふと空気の色が変わったことは知ってはいたが、まさかこんなことだったとは。
 かごめが欲を抱いたきっかけは分からぬが、犬夜叉はこれ幸いとふわりと結ばれた唇を撫でた。
 綺麗に伸びた睫毛に、柔らかく影を乗せた目蓋。
 ほのかに色づく頬に、透き通る滑らかな肌。
 親指が触れる唇はいつもよりも色めいて、熱が透けていた。
 犬夜叉はそこを幾度か撫でながら、艶を含んだ面差しを見つめる。
 このまま口づけてしまってもよいのだが、せっかくかごめから強請ってきたのだ。
 (どうせなら――――)
 犬夜叉は爪の先で唇を軽く割開きながら目を細めた。

 「なぁ、かごめからしてくれよ」

 「えっ?」

 その言葉にかごめは目を見開くと、緩く笑う顔を見つめる。
 
 「でも、」

 「たまにはいいじゃねぇか。それにしてぇのはお前だろ?」

 確かに欲を抱いたのも、口づけを強請っているのもかごめだ。
 口づけの大半は犬夜叉からで、自らなどきっとまだ数えるほどしかない。
 目の前の彼が、好機だとほくそ笑んでいることはわかっているが、押し切るには分が悪い。
 かごめが思い迷っていると、更に熟れた頬を犬夜叉が誘うように撫でた。

 「〜〜〜〜っっ」

 「なぁ?」

 「わかったわよっ」

 軽く頬を膨らませ柳眉を釣り上げるものの、怖さなど微塵もない。
 かごめは意地悪く笑う犬夜叉の頬を包むと、拗ねるように唇を突き出した。

 「目、閉じてよ」

 黄金の眼はかごめを映し、彼女の抱いた欲の行く末をしかと見届けようとぱっちり開かれている。
 こんなふうに見つめられては、思わず零れる吐息の色まで拾われてしまいそうだ。
 想像だけでも身体の芯から火照ってくる。
 かごめが恥じらいを口にはするものの、こんな好機は幾度もないと犬夜叉は鼻根に皺を寄せた。

 「あ?いいじゃねぇか、今更。減るもんでもねぇし」

 「減るの!」

 共に暮らして夫婦になって、重ねる肌の温度を知っても、いまだ慣れぬこともある。
 そんな妻の姿を見ることも、愉しみのひとつだったりするのだが。
 更に赤くなった頬に犬夜叉はくつくつと笑いながら、ぴたりと目蓋を閉じた。
 途端に静かになる空気。
 風の音に混じる息の音。
 凛々しい眉に、すっと通った鼻筋。
 意外にも長い睫毛が白い頬に影を落とす。
 指先で頬の線を辿り、少しだけカサつく唇をそっと撫でると、かごめは同じように自分のそれにも触れた。
 (あつい……)
 きっと、あのときも――――
 終ぞ触れなかった熱さを思う。
 かごめは無意識に唇を湿らすと、ゆったりと目蓋を伏せ、同じ熱を迎えに行った。










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