からっぽの箱

□8話
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side.Y




『あ、さやかちゃん』

翌日、午前の授業を終えて購買へ向かうと司書の文久さんに声をかけれられた。





再会したあの日、夢莉ちゃんが出て行ったあと戻ってきた文久さんに挨拶をした。

「今日からこの学校で日本史を担当します。山本彩です。よろしくお願いします」

『司書の秋月文久です。よろしく、さやかちゃん』

下心を感じさせず自然に下の名前で呼ぶのは、きっと誰に対してもそうなのだろう。総白髪に鼻の下に髭を蓄え、紐付きメガネをかけている。身長が高いのに威圧感がない。穏やかに微笑むのでこちらの荒れていた心まで落ち着いた。

「よろしくお願いします」

『僕のことは文久でいいよ』

「え、」

『そのほうが仲良くなれそうな気がしない?』

ふにゃふにゃと和む笑顔で言われ、文久さんと呼ぶと満足そうにうなづいていた。

『さやかちゃん、目冷やしてく?保冷剤持ってこようか?』

「っ、どうして、」

『せっかく綺麗な瞳なのに充血しちゃってるから、泣いちゃったのかなって』

そう言いながらカウンターの後ろの小さな冷蔵庫から持ってきた保冷剤をハンカチで包んで渡してくれた。

「すみません、ありがとうございます…
えと、これはその、」

『ゆーりちゃんと何かあったのかな?』

「っ!、テレパシーでも使えるんですか?」

愉快そうに上品に笑う文久さんは一体何者なのだろう。次から次へと言い当てられ、一周回って冷静になってきた。

『こんなのただの観察だよ。いやなに、さっきすれ違ったゆーりちゃんも泣いてるように見えてさ』

「…泣いてたんですか?」

『涙を流してたわけじゃないんだけどね。苦しいのに、泣き方が分からなくて笑顔でいたって感じだったな』

それを聞いてさっきの夢莉ちゃんの表情を思い出した。
あれはどう言う気持ちだったんだろ…

「…」

『…あの子、あんまり大人に甘えられないみたいだからさ、もしさやかちゃんが良ければ少し気にかけてやってくれないかな?』

眉が下がった困ったような顔で頼まれたら断れなかった。

















『さやかちゃん本好きなんだよね。昨日ゆーりちゃんに新書の整理してもらってたんだけど、何か借りていくかい?』

「はい、ぜひ」

文久さんと一緒に購買へ向いながらいろいろと話を聞く。どうやら夢莉ちゃんは図書委員みたいで、昨日は委員会で残っていたみたいだった。
でも図書室に他の生徒はいなかったような気がしたけれど。

『ああ、それはね、図書委員会は仕事多いからみんなサボってこないんだよ。ゆーりちゃんも帰っていいって言ったんだけど、どうせ暇だからってやっててくれて』

「一人でですか?」

『そう。僕もやってたんだけど、途中で春吉に呼ばれてさ。全部片付けてくれたみたい』

春吉というのは風間校長の下の名前だ。
校長先生のことを呼び捨てで呼べるのも文久さんくらいだろう。

『あの子、ほんと優しいからなぁ』

「え?」

思わず聞き返してしまった。
やさしい…
図書室での出来事を思い出すと、とてもじゃないけど、そうですねとは言えなかった。

『何か気になる?』

「え、あ、っと…実は前に夢莉ちゃんに会ったことがあるんです。その時はすごく優しくしてもらったんですけど、図書室で再会したときあれは演技だって言ってて。
その…私の目にはやさしい、って感じには映らなかったので」

話すべきではないと思ったけれど、文久さんの穏やかな目を見ると溢れるように言葉に出してしまっていた。

『そうだったんだね。確かにゆーりちゃんはどこか冷めてる感じがするかもしれないけど、すごく優しい子だよ。たぶん、本人も気づいてないんじゃないかなぁ』

「気づいてない?」

『うん。さやかちゃんもきっとわかると思うよ』

文久さんにはなにが見えているのだろう。
それは私にも見えるものなのかな。

『噂をすればだね』

「え?」

文久さんの視線の先に目を向けると夢莉ちゃんがいた。
あのとき以来ちゃんと話していなかったからどんな顔をすればいいのか分からない。

『おーい、ゆーりちゃん』

『文久さん、こんにちは』

こちらに気づいてぺこりと律儀に挨拶をする夢莉ちゃんはいわゆる優等生のいい子ちゃんだ。

『先生も、こんにちは』

「…こんにちは、太田さん」

私の目を見て笑うその心の中では、悪い子な考えをしているに違いない。

『今からお昼?』

『はい。いつもの場所で食べようと思ったんですけど先客がいまして』

シンプルな藍色の巾着袋を持ち上げて見せて言った。

『じゃあ図書室で食べたらいいよ』

『え、いいんですか?あそこ飲食禁止ですよね』

『カウンター裏の司書室使えばいいよ。僕は使ってないけど、確か机と椅子もあったし』

はいこれ。と、簡単に鍵を渡した文久さんはだいぶ夢莉ちゃんを信頼しているみたいだ。

『あ、あとさやかちゃんが新書借りたいらしいから案内してあげてよ』

「へ?」

じゃあ僕は春吉と食べてくるねー、と文久さんは校長室へ行ってしまった。去り際にばちこんといやに綺麗なウインクをされたけど見なかったことにしよう。こんな気の利かせ方は困る。

「…じゃあ私も購買に行こうかなー」

立ち去ろうとした腕を掴まれ逃げ出すのに失敗してしまった。

『今日お弁当作りすぎちゃったんで、先生よかったら食べてくれませんか?』

「いやぁでもやっぱお腹空いてへんような気が…」

『じゃあ新書のとこまで案内しますね』

「それもちょっと今目ぇ霞んでて読めへんかも…」

『往生際悪いですね。さっさと行きますよ』

言い訳もうまくいかない。今日は調子悪いな。そのまま腕を引かれ図書室まで連れて行かれる。司書室へ入ると、がちゃりと鍵を閉める音がした。

「…なんで鍵閉めるん」

『なんででしょう』

見つめられ固まっている私はまさに蛇に睨まれたカエルだ。随分と顔の整った蛇だけど。
促され、皮張りの立派なソファーに座る。隣に座った夢莉ちゃんが机に置いた巾着の口をしゅるっと開いた。

『まずは、腹ごしらえしましょうか』

まずは、って他になにをするつもりなのか。
今からでも逃げられないだろうか。
ずるい私は未だに逃げ出すことを考えていた。


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