からっぽの箱
□25話
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side.Y
薄手のパーカーの下でじわりと汗が滲む。
じりじり照りつける太陽に熱せられた砂浜は火傷しそうだ。
水辺で楽しんでいるクラスメイト達をパラソルの下で眺めていると、隣に誰かが腰掛けた。
『イチゴとブルーハワイ、どっちがいい?』
両手にかき氷を持った先生は、さっきまで生徒の中に混ざっていたはずだ。見失ったと思ったら海の家まで行っていたのか。
「ブルーハワイで」
『ん、』
「ありがとうございます」
渡された青い氷を一口食べる。人工的な甘みとひんやりした感触が広がり、少し暑さが和らいだ気がした。
「うま」
『な、生き返るわ』
二人して夢中でかき氷を食べる。一気に食べるもんだから、頭に独特の痛みが走った。
『でも意外やったな、夢莉がこーゆーのに参加するって』
「あー、それは…」
私だって行きたくはなかった。
だけどあの日…
『あのさ、夏休みに1組と3組の何人かで海行くことになったんやけど太田さんも来てくれへん?』
会ったことも話したこともない男子に思いもよらぬ誘いをされて戸惑う。
他クラスと一緒に海に行く。高校生活最後の思い出を作りたいのだろう。それはまだ分かる。でもなんでわざわざ私なんか誘うんだ?
「…私が行っても盛り下げるだけですし、遠慮しときます」
『そう言わんでさ、頼むわ』
『女子一人足りひんねん。もう俺らのクラス連中には10人来るって言ってるから、今から変更とか困るんやけど』
なるほど、合コン的なのも兼ねてるということか。ますます行きなくない。何が困るんやけど、だ。勝手に決めてるそっちが悪い。
迷惑そうな顔で見られて心底不快に思う。
『代わりにこの子とかでいいんやない?』
タシロさんがにやにやしながらどん、と物静かな女子生徒の背中を押した。
『えー、そいつ微妙やんか』
『でも太田さんは行きたくないみたいやし、仕方ないやろ』
男子達に品定めされるようにじろじろと見られ、その子の目が潤んできてしまっている。タシロさんは別に一緒に行きたいわけでもないだろうに、私の嫌がるとこを見たくてこんなことしているんだろう。
本当に意地汚くて虫唾が走る。
だけど、助けを求めるようなその子の目に負けてしまった。
「分かりました。私が行きます。それでいいですか」
『おっ、まじ?じゃあ決まりな』
『なつきー、あとで太田さんに詳しいこと教えといてな』
『えー、私がやるん?』
誘っといてそっちのけで盛り上がる連中に気が滅入る。この人達と海に行くとか何の罰ゲームなのか。
『なになに?なんかあったん?』
後ろから聞こえてきた声にふわ、と心が軽くなった。
そうか、次は日本史だったか。
「先生…」
振り向くと目が合い優しい笑顔を向けられて、棘が簡単に落とされる。ほっとしていると、また煩い声が響いた。
『あっ、さや姉!俺ら夏休みに海行くんやけど、一緒に行きません?』
『へ?私教師やで、行ってもおもんないやろ』
『いや全然いいっすよ。むしろ大歓迎っていうか。なあ』
『私もさや姉に来てほしい!』
こいつら怖いもの知らずか。教師を誘うなんて。
こんな人達に先生を関わらせたくないと思う反面、一緒にいて欲しいという思いが頭をよぎってしまった。
『ほら、太田さんもなんとか言ってや』
『え、太田さんも行くん?』
驚いた顔で見つめられる。
行きたくないんですけどね、とは言えずにただ頷いた。
『…そうなんや』
『行きましょうよー』
しばらく悩んだと思ったら渋々といった感じの返答をした。
『引率、てことでやからな』
『それオッケーってことですよね!』
『よっしゃ!はよあいつらにも知らせんで!』
返事も聞かずにバタバタと自分たちのクラスに戻っていった。タシロさん達もきゃあきぁあとまた盛り上がっている。
複雑な感情のまま小声で先生にきくと、私に合わせて小声で話してくれた。
「いいんですか」
『夢莉も行くんやろ?』
「まあ」
『やったらいいかな、て思って』
「…そうですか」
うん、と言って教壇へ向かった先生の背中を見る。
憂鬱だった気持ちが安心に変わっているのに気づいた。
その後、タシロさんから日時と場所だけ書かれたノートの切れ端を無言で渡された。
夏休みに突入して何度も行きたくないと思ったけれど、先生からの楽しみにしてそうなLINEのメッセージを見たら行かないという選択はできなかった。
『なんや、夢莉は人数合わせで参加したんや』
かき氷を頬張りながら言われる。
そうじゃなかったら絶対に参加しませんよ。
「そうですよ。逆になんだと思ってたんですか」
『いやてっきり恋人とか新しい暇つぶし相手欲しさに来たんかな、って』
「そんなわけないじゃないですか。先生がいるんで必要ないです」
『…ふーん』
そう言ったきり、しゃくしゃく崩している氷の山に視線を向けて黙ってしまった。
その横顔を見ていると、何かいつもと違う気がする。
…あっ、
「そのピアス…」
『やっと気づいた』
左耳のトラガスで光るピアスは私が誕生日にプレゼントしたものだった。確か終業式のときはまだ透明なやつだった気がするけど…
『ぎりぎり一ヶ月たったし、ちょっと早いかなって思ったけど付け替えてん。今日せっかくやし夢莉に見せたくて』
少し恥ずかしそうに言う先生に、ぱたぱたと心が羽ばたく音がした。
「似合ってます。かわいい…」
自然と溢れた言葉に自分ではっとする。
似合ってます、だけ言おうと思ったのに。
かわいいだなんて、言ってしまったあとで恥ずかしくなった。
『へへ、ありがと』
嬉しそうに笑って、照れ隠しなのかまたかき氷をつついている。
前は女性をいい気にさせる言葉なんてすらすら出てきてたのに、今はカッコつけた台詞の一つも思いつかない。
『な、夢莉のブルーハワイ一口ちょうだい』
「え、あ、どうぞ」
溶けかけている氷の山が入った器を差し出したけれど、先生は自分のスプーンで掬わずに、あー、と口を開けて待っている。
一応クラスメイト達が見ていないか確認したが、遊びに夢中で誰もこちらを気にしていないようだ。
雛鳥みたいに口を開けた先生に、自分のを一掬い運んでやる。唇が閉じたのを確認して引き抜くと、おいしいな、と笑った。
『はい、お返し』
今度は私に差し出されたスプーンを素直に咥えると、甘ったるいイチゴ味が広がった。
かき氷のシロップの味は全部同じだっていうけれど、この一口は特別甘く感じる。
『おいしい?』
「…はい」
こんな少女漫画みたいなベタなことくだらないと思ってたのに、きらきらしたスクリーントーンを貼られたみたいに周りが眩しい。
『…ゆーり?』
黙ってしまった私を先生が覗き込んできた。
まんまるの大きな瞳、何度も重ねた形の良い唇、いつも付ける印は豊満な胸の谷間に隠れている。
「その水着、あんまり先生っぽくないですね」
赤基調の花柄のビキニは、先生の下着の趣味から考えると意外だった。
『これな、水着持ってないって百花に言ったら渡されてん。ビキニとか初めて着たけど、めっちゃ恥ずかしいな』
「ほぼ下着みたいなもんですよね」
『そやねん。ずっと落ち着かへん』
「でもさっきは生徒達と随分はしゃいでたじゃないですか」
荷物番をしながら見ていた先生は、そんなこと気にする様子もなく楽しそうにしていた。
『生徒の前で恥ずかしがってたら逆に変な感じになるやんか』
「私も生徒なのに恥ずかしいんですか?」
体育座りでスプーンを齧って言いづらそうにもじもじしている。子供みたいなその仕草は可愛らしいけど焦ったい。
少し急かすような視線を送ると、やっと口から離したスプーンを弄りながらぼそぼそつぶやいた。
『やってさ、夢莉の前でこーゆー格好してると思い出しちゃうねん』
「なにを」
『…ぇっち、してるときの夢莉の声とか、顔とか、いろいろ』
耳まで赤くしてちらちら様子を伺ってくる。
私はというと、どう考えても誘い文句としか捉えられないその言葉に完全にその気になってしまった。
無防備に晒されている脇腹にそっと触れる。
びく、と跳ねた肩に思わず笑ってしまった。
「先生、えっちなこと考えてたんですか?」
『っ、』
「生徒達の引率で来たはずなのに、その生徒相手に興奮してたなんて」
『興奮なんてしてな、』
「ほんとに?いろいろ思い出しちゃったんですよね?そのいろいろってなんですか?キスの感触?揉まれた胸?それとも中のいいとこを突かれた指ですか?」
耳元で言うと、潤んだ目に睨まれる。
でももうその目は期待しているときのそれだ。ただでさえ暑いのに、二人の欲がさらに頭を熱くする。
押し倒したい。啼かせたい。ぐちゃぐちゃに乱してしまいたい。
とめどない欲望に当てられていると、それを萎ませる冷や水をかけられた。
『さや姉と太田さん何してんの?』
いきなり目の前からした声に、さぁと血の気が引く。さっきまで向こうで遊んでいたはずの生徒達がいつのまにか戻ってきていた。
きっと変に体を寄せた不自然な体制になっていたのだろう。怪訝そうな目を向けられて固まってしまう。
『っ、耳に水入っちゃって、太田さんにちょっと見てもらっててん。それよりどしたん?もう遊ばんでいいの?』
先生は機転が効くというか、頭の回転が速い。不自然なくすぐに言葉が出るのは本当に凄い。生徒達も気づいていないみたいだ。
『腹減ったから飯食べようと思って。さや姉もなんかいります?』
『私達はさっき食べたから気使わんでいいよ。な?』
「はい」
食べたって言ってもかき氷だけど、はやくこの場を切り抜けたい私は動揺を悟られないように返事をした。
何事もなく海の家に向かった彼らを見送ってひといきつく。
こんなに暑いのに冷や汗をかくなんて。
「危なかったですね…」
『多いよな、こういうの』
言われてみると確かに。
木下先生に浜田先生にもばれそうになった。
「先生が誘うからですよ」
『いや誘った覚えないんやけど』
「あんなの誘ってるようにしか聞こえませんって」
『夢莉が猿みたいに盛ってるからやろ』
「猿て」
さっきまでの熱は収まってしまってしまい、くだらない掛け合いになる。
それでもこれはこれで楽しくて、猿の物真似をする先生に何度も笑わされてしまう。
だから、さっき海の家へ行ったはずの彼が戻ってきていたことに気がつかなかったんだ。
『太田さん、ちょっと来てくれへん?』
真っ赤に日焼けした顔でそう言う彼に、せっかく楽しかったのに何で今。とか、はやく話を終わらせて先生の所に戻ろう。とか考えて呑気について行ってしまった自分を殴りたい。
いつもならこういう勘はよく働いて躱すことができたのに、先生との会話に気を取られていて気がつかなかった。
『太田さん、俺と付き合って』
彼の真っ赤な顔は日焼けなんかじゃなくて、好意を寄せる異性に対する表情だった。
不意打ちの告白に私は困惑して、苛立ってしまい、無難な答えを言えばよかったものを、ひねくれた私の返答は面倒な恋愛をさらに面倒なものに変えてしまった。