dream
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「邪魔そうですね」
目に掛かる前髪を手で払ったら、口を付けていたマグカップをそっと置いて八戒が言った。
部屋には、コーヒーのいい香りが充満している。お子様舌の私には、ブラックコーヒーの美味しさは理解できない。だから、デフォルメされた可愛い猫のイラストが入ったマグカップの中の黒い液体には決まってたっぷりのミルクと砂糖が入っていて、うっすら茶色掛かっただけの白だった。
「うん。いい感じに目に刺さるんだよね」
中途半端に伸びた前髪は鬱陶しくて、ここ数日の間、何度も手で払ったり顔を振ったりしていた。そんな様子を見ていたんだろう。
こんな生活じゃあ美容室に行けるわけもなく、殆ど手入れが出来ない。暑さや寒さや風にさらされていつもキシキシだし、何より洗えればマシ。それでも、伸び放題の髪はいつも八戒が切ってくれた。今日も、まだ頼んでもいないのにハサミと櫛とヘアクリップを取り出し、どうぞ、と、まるで紳士な美容師みたいに椅子を引かれては断る理由もなくておとなしく腰掛ける。(美容室にしては、床に敷かれた新聞紙が異様な光景だ。)
首にタオルが巻かれ、前髪をとかしてもらうと、案外目の下まで伸びていた。髪の隙間から、ちらちら八戒の身体が見える。
「目、閉じててくださいね」
「はーい」
「いつも通りでいいですか?」
「ん。ぱっつんでいいよ、ぱっつんで」
両サイドがクリップで留められる。
少しだけ、手がこめかみに触れた。
さく、さく、さく。
他の皆の髪も切っているからなのか、もともと器用だからなのか、慣れた手付きで迷うことなく切っていく。目を閉じているせいで、髪の切れる音とハサミの刃が擦れる音がやけに耳に付いた。
私は、この短い時間が苦手だった。とても長く感じられるから。八戒が、私に触れている。そんなのよくあることなのに、たったそれだけなのに、鼓動が五月蠅くてかなわない。
だって実質、振られているようなものだった。何度も伝えようとした。でも、八戒はその度にそれを許さない。話を遮られたり、逸らされたり。私は分かり易いから、きっと言葉や表情でとっくにバレているんだろう。その上で態度が全く変わらないから、やっぱり大人だ。
でも、それが“拒絶”に思えて仕方がなかった。私の知らないあの過去は彼を変えてしまった忌まわしいものだけど、それと同じくらいとても美しいんだと思う。入り込む隙間なんて、1ミリもないくらいに。侵す権利はないから、拒絶されてしまえばそれ以上は踏み込めない。
それでも、優しくされると嬉しい。柔らかい笑顔を向けられただけで、心臓が壊れてしまいそうで夜も眠れなくなる。顔にも性格にもスタイルにも自信はないけれど、『私を見て!』と、伝えてしまいたかった。
「出来ましたよ」
「さすがー」
「ぱっつんですからね。注文が多いどこかの偉いお坊さんと違って助かります」
「え、なにそれ。切ってもらっといてそんなこと言うの三蔵サマ。何様よ」
三蔵さまですよ、と、八戒が肩を揺らして笑う。
その姿に、また心がざわつく。私は、独り占めしたいのだ。この笑顔も、傷付いた心も、“誰か”と幾度も重ねた愛を忘れられないでいる身体も、自分だけのモノにしてしまいたい。その綺麗な瞳に、私だけを映してほしい。私ならきっと、悲しい顔をさせたりしない。何処から湧いてくるのか、妙な自信は御立派なものだ。
顔に付いた短い髪を手で払い落とすと、差し出された手鏡。くるりと返して映した自分の顔は、前髪共々ちゃんといつも通りだった。大丈夫、知らない誰かに嫉妬なんかしていない。
「お気に召しました?」
「完璧!」
「それはよかった」
座ったままの私に、手鏡と入れ替えでマグカップが渡される。飲みやすいちょうどいい温度。口に含むと、あくまで私にとっては心地がいい甘さが口の中に広がって、彼に想いを抱いた速度のように、身体にじんわりと染み込んでいった。叶わなかったけれど綺麗な恋だったと、そう思える日がいつか来るのだろうか。
私の首からタオルを外した温かい手を掴んで口にした『ありがとう』は、一体何に向けたものだったのか。
八戒は一瞬驚いたように目を見開いてから、『どういたしまして』と、ゆっくりと、さっきとは違った寂しい笑顔を浮かべた。
Never let me go.
僕はまだ、貴女の手が掴めない。