Book-black
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月がやけに眩しい夜だった。それは三日月だったけれど、町の灯りもなく、星の瞬きだけでは明るくなれない夜空には不釣り合いな程だった。
今日は、町に着けなかった。陽が落ちる前、襲撃に遭ったのだ。勿論それは片付いたけれど、その頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていて、今夜のところはこのまま野宿をすることになったのだった。三蔵サマは最後まで頷かなかったけれど、暗闇の移動は私もあまり好かないから、正直、野宿でよかった。(ジープのヘッドライトに集まる虫が、走行中にバシバシ顔に当たるからだ。切実に幌が欲しい…。)
そして先程、焚き火をたいて眠りについたのだが、通常運転な悟空のイビキが五月蝿くて目を覚ましてしまったところ。
ふと、すぐ近くに小川が流れていたのを思い出し、私はそこに足を浸し芝生の上に座っていた。ぼんやりと三日月を見上げながら。そして、さらさらと流れる水音に耳を傾けながら、夜に一人で出歩くと怒られるということを思い出すのだ。そりゃあ一応女だから当然といえば当然なんだけれど、特別扱いはしないルールがある以上、過保護すぎるのもどうかと思う。
特に、八戒が五月蝿い。本当、お母さんだ。
「バレないうちに戻んなきゃなー。でも悟空ウルサいしなぁ…」
ぱしゃぱしゃ。まだ少し暑さが残る夜。流れる冷たい水は、疲れてむくんだ脚に気持ちがよかった。
「おい馬鹿女。一人で出歩くなと散々言ってるだろうが」
「んぁ」
「馬鹿面下げてんじゃねぇよ」
聞き慣れた声に身体を半分捩って振り返ると、煙草をくわえた三蔵がそれはもう不機嫌な顔で仁王立ちをしていた。
しまった、見つかってしまった。悟空のイビキで目を覚ましてしまったのは、どうやら私だけではなかったらしい。
「いやー…眠れなくてェ…」
「……………」
怖い。なにがって、顔が。女顔だし華奢だし(見た目よりは筋肉あるけど)、タレ目だし髪綺麗だし、見た目だけならかなりの美人。なのに、今はどうだろう。不機嫌MAXオーラを纏って私を見下ろす姿は、まるで魔王みたいじゃないか。
「あっち、まだうるさい…?」
なんて訊いてみても、返事はない。煙草の煙を静かに吐き出す音と、小川のせせらぎ、虫の声が少し聞こえてなんとも風情を感じた。
見えない壁がある。
他の三人には気を遣わないし、向こうも多分同じ。兄妹みたいな感覚で、女も男も気にしない。あの女好きの悟浄でさえ、私のことは“そういう”対象ではないのだろう。あわよくばとちょっかいを出してきたのは、初めて出会った時と一行に加わった初日だけ。最初に作ったルールがなかったとしても、きっとなにも変わらなかった。でも、三蔵は違うように映った。端から私が加わることに賛成していなかったように見えたし、今でも腫れ物に触るみたいに扱われていると感じる時がある。
だからといって私が普通じゃない態度を取ったとしたら、きっと溝のようなものは深くなる一方じゃないのだろうか。そう、壁なんて、見えてない振りをしようと決めたのだ。私のせいで雰囲気が悪くなるのは嫌だから。
そろそろ、戻ろうか。
その時、やっぱり眉間に皺を刻んだ三蔵サマが、私の隣に腰を下ろした。なんという珍しいツーショットだろうか。
「好きなのか」
「え?」
「いつも見上げているだろう」
一瞬、なんのことか分からなかった。新手の告白かとさえ思ってしまったが、恐らく月とか星を指しているんだと分かった。そういえば、こういった類の話は八戒とばかりだ。私にとって、お兄さんでありお母さんみたいな存在。話せないことの方が少なくて、楽しいことも愚痴も、考え無しに吐き出せてしまう。
ああそういえば、他愛のない会話なんてこうして並んでしたことが今までに何度あっただろう。
それにしても、私がよく空を見上げていることを知っている。なんだかくすぐったいような、変な感じがした。
「うん。きらきらしてて綺麗でしょ?」
「幼稚だな」
「あーそうですか…」
あれ?もしかして私、緊張してる。
言葉が出てこない。
悪態なら得意のはずなのに。
「おい」
だから何度も呼ばれていることに気が付かなかった。どくんどくんと脈打つ音が身体の中で反響しているみたいで、五月蝿かった。ただ、揺れる水面に反射する月の光を眺めながら、まるで溺れているような感覚にまで陥る。それは刹那だったのに、永遠のようだった。
何度目かの呼ぶ声でハッとして顔を上げると、ばちんと目が合う。
ごめん、ぼーっとしてた。
そう言おうとした。言おうとしたのに、言えなかった。煙草の火は消えていて、空っぽになった右手が、動くことを許さないような、それでいて引き寄せるみたいに私の左肩に置かれていた。綺麗な紫色は目蓋で隠れていて、端正な顔立ちがいつの間にか目の前にある。
息を飲んだ。なにを考える余裕もなく、予想外の展開に混乱してどうすることも出来ずぎゅっと目を瞑って思わず少し俯いた。ふわり、煙草の匂いがした。
「隙がありすぎなんだよ」
触れるか触れないかのギリギリのところで、三蔵は忠告とも取れる台詞を吐く。
そしてそのまま、ゆっくり離れた。
私はきっと、期待したのだ。
抱き寄せられるのとか、あのまま唇が重なるのを。それでいて浮かんでいるこの笑みは、それを見透かした上の意地の悪いものなのだ。おかげで自覚してしまったじゃないか、どうして私が壁を感じていたのかを。
私の脚はまだ、小川に浸ったまま。
咄嗟に、立ち去ろうとする法衣の裾を掴んで引き留める。自分がどんな顔をしていたか、どんな声色で呼んだか分からない。どんな風に受け取られたのさえも。
だけど、怖くなかった。三日月の光に照らされた三蔵は、私が今までに見たこともないような柔らかくてどこか満足そうな表情をしているようにも見えた。
とても、綺麗だった。
orchid
三日月が照らした紫に溶ける。