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□クラリスロマイシン
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「………、あれ、」
「おっ起きたかバニー」
深いところから、急に掬い上げられたような心地がしたと思ったら、いつの間にか瞼が持ち上がった。ゆっくり2度、3度瞬きをして、自分が眠ってしまっていたことを知った。
だんだんと意識がはっきりとしていって、僕はこの状況を理解した。
「………なんで、こてつさん、」
「なんでって、お前なぁ、突然あんな意味わかんねぇメール来たらそりゃびっくりして来るだろ!」
「は?」
ほら、と彼に見せられたメールの画面は『風をひいているてしまっ、?ら、』と、なるほど確かに不気味なほど訳のわからない文面だった。少しずつ思いだす。
あの時、物凄く意識が朦朧としていた。きちんと打ったつもりで満足して、更には気づかないうちに送信してしまって、それから僕は寝てしまったのだろう。
ふと額に何か違和感を感じた。冷たい。手を伸ばすと、シートが貼ってあって、指先がぶよぶよとした柔らかいものに触れた。先ほどよりも少し楽になった気がしたが、これのおかげでもあったのかもしれない。
「お前すげぇ熱だったからさ、ドラッグストア行って色々買ってきたぞ。あー、あとキッチン借りていい?」
「……いいですけど、食欲ないです」
「ばーか、こういう時こそなんか腹に入れとかねぇと治るもんも治んねぇぞ」
そう言いながら、ガサガサビニール袋の音を立てて虎徹さんが去って行った。
広い背中を眺める。パンチを得意とする彼は、やっぱり上体の筋肉は自分よりもついている気がする。だけど、対象的に腰や脚はびっくりするくらい細い。いつ見ても思う。
ぼんやりとしていたら、ふと、何かが記憶の隅で暖かく光った気がした。
「つかさ、お前んち本当に何もなかったんだけど、今までどう生きてきたの?どうせ飯だって今までろくなもん食ってなかったんだろ」
唐突に彼が振り返って僕に言った。
「別に、ちゃんとしてますよ」
「じゃあ昨日何食ったんだよ」
「それは、………その、昨日は忙しくて、それでたまたま」
「で?」
「………ミルクは飲みました。でも、それは本当に昨日だけで」
「あーはいはい、もう何となく分かったから」
呆れ半分にそう言われて、仕方なく僕は黙る。でも、本当に昨日は食欲もなかったし、それにすごく疲れていたから、そう、仕方なかったんだ。そう自分に言い聞かせて納得させる。一昨日は宅配だけどちゃんと食べた。週末も外で食事をする機会があって、そこでもしっかり食べたはずだ。そんなに呆れられる筋合いはない。
「それにお前、食ったっていったってどうせ自分で料理はしねぇんだろ。外食ばっかは身体に悪いぞ」
「それは」
「言い訳ばっかすんな。体調管理だってヒーローの仕事のうちだろ」
「………………はい、」
こんな時に説教をされるだなんて思ってもいなかった。だけどこんな時だからか、余計、言葉の一つ一つが身にしみて何も言えなかった。
なんだかんだ言って自立したきちんとした生活を送らずに、あまつさえそれを仕事のせいにして仕方ないと言い聞かせている節が、確かに僕にはあった。自分自身でも見ないふりをしていたところを的確に突かれて、痛まないはずがない。
「……今回の件は、完全に僕が悪かった、です、すいません」
「……おう。それにお前がいないと俺も落ち着かねぇんだよ!みんなも心配してっぞ」
「………え?」
「だから余計早く治せよな。…なんかお前が素直すぎるのも気持ち悪いし」
「どういうことですか」
「いや、そんな素直に謝るとは思ってなくて…、お前熱出してんだもんな!喋らせて悪かったよ、ちょっと休んでろ」
あ、と思った時には、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように頭を撫でられていた。スタイルが崩れるからやめて欲しいと、何度も何度も、割と本気でいつもお願いしているのに、一向にやめて貰えない。
だけど、少しだけ嬉しかったのは、僕が今風邪をひいていて弱っているからか、それとも、叱られた後だったからか。
両方か、それか後者だろうな。
その時、ふわり、と、また、さっきみたいに記憶が光った。ほんと一欠片の記憶だったけど、確かに光った。
それが、何だか懐かしい気がした。多分、散らばった幼少期の頃のものだからだ。
離したくなかった。瞼を閉じてゆっくり追いかける。
暗い中で、どんどん奥の方に潜り込んでいく。熟れたりんごの甘い匂い。滑らかなベットシーツは、溶けてしまいそうなほど柔らかい。
奥へ奥へと進んで行く。
懐かしい。優しい。泣きたくなるほど。何度も聞こえるのは、僕の名前だ。誰かが僕を呼んでいる。バーナビー、バーナビー、バーナビー。
少し古ぼけた色の天井。静かな足音。僕はこれを知っていた。バーナビー、バーナビー、バーナビー、
『バーナビー、駄目じゃないか、あんな雨の中を傘も差さずに帰るなんて。だから風邪をひいたんだろう』
低い、穏やかな声だった。蜂蜜のようにとろりとろりと、脳みその奥に響いている。
確かにあの日、僕は傘を家に忘れた。だけど、迷惑をかけてはいけないと思って、そのまま走って帰った。それで次の日、熱を出したんだ。
『ごめんなさい』
『今度からはちゃんと私を頼るんだよ。君が風邪をひくよりはましだろう。学校のみんなもきっと心配してる。はやく治すんだよ、バーナビー』
『……、はい』
『ありがとう、マーベリックさん』
「____っ、!!」
はっ、と、自分の呼吸の音で目が覚めた。あたりを見渡す。嗅ぎ慣れた匂いと高い天井に、ここが自分の家だと気づいて安心した。
胸を上下させて、ぜいぜいと息を吸っては吐き出す。びっしょりと汗をかいていて、首筋に髪が張り付いて気持ち悪い。鼻の奥がつんと痛んで、気がついたらぼろぼろと涙が流れていた。
「はっ、はぁっ、……ぁ、」
ぼた、ぼた、と涙がシーツを叩く。肺が潰れてしまったのかもしれないと思うほどに、痛んでいた。急に息を吸ったからか、激しく咳き込む。
苦しかった。ひたすら苦しかった。自分の咳き込む音は、聞くに耐えないほどに酷い。
「……バニー?って、おい!」
血相を変えて、虎徹さんがこちらに向かってくる。相変わらず酷い噎せ方をいる僕の背中をさすってくれる。
突然、胃の中から何かがせり上がってくる。熱い塊が、ものすごい勢いで喉元に駆け上がってきた。
僕はこの感覚を知っている。咄嗟に口元に手を持って行ってきつく抑え込んだ。
こんな失態を晒すわけにはいかない。あー、せめて、トイレに行きたかった。
「なぁ、バニー、大丈夫だ」
「っ、!?、ぁ、こて、さ、」
「大丈夫、大丈夫だから」
「…っ、く、は、まっ、ぁ、や、」
虎徹さんが僕の手首を掴んで、引き剥がした。抑え込むものが無くなる。
真っ青になった。
苦しい。苦しい。くるしい、駄目だもうトイレにすら全然間に合わない、くるしい、でも、だけど。
「平気だって、誰も見てねぇから」
「っ、っ、っ、…ぁ、__ぉえ"、っ、」
びちゃ、びちゃびちゃ、
限界だった僕は、とうとう吐き出した。幸い、胃の中は空っぽだったようで、どろりとした黄色い胃液だけがこぼれた。
喉奥が焼けるように痛い。酷い匂いがした。涙が止まらない。
咄嗟のことで、引き剥がされたばかりの左手に吐瀉物がかかったしまっていた。はたと気づく。僕の手を抑えていた虎徹さんの手にもだった。
「……、あ、ごめ、なさ、」
「あ?別にいいって、俺が吐かせたようなもんだし。それより、お前大丈夫か?病院行った方がいいんじゃ」
「虎徹、さん」
考えるより先に、体が動いていた。
酷い顔のままだったけれど、どうでもいい。どうしても、この人に聞きたい、と思った。
「ん?」
「マーベリックは、本当に悪い人だったんですか?」
まだ涙は止まらない。生理的なものなのか、そうでないのか、それも分からない。ただ、止まらなかった。
「マーベリックは、僕の両親を殺した。サマンサおばさんのことも。更には貴方のことさえも、僕に殺させようとした。それは許せない。許せない、けど、でも、だけど、…僕を、独りになった僕の面倒をみてくたのは、今日からここを自分の家だと思っていい、と言ってくれたのは、」
探せば、記憶の断片はいくらでも散らばっていた。
「僕がテストで満点を取った時に、嬉しそうに目を細めてくれたのは、クリスマスプレゼントにラジコンカーをくれたのは、雨の日、大きな傘を持って迎えに来てくれたのは、熱を出した日、なにも食べたくないと我儘を言った僕に林檎を擦ってくれたのは、全部、……ぜんぶ、ぜんぶマーベリックさんだ。もしかしたら違うのかもしれない。記憶を変えられていたのかもしれない。けど、こんな、こんなすぐに忘れてしまえるような小さなことまで?こんなところまで全部すり替えるなんて、可能だと思いますか?わざわざそんなことをしようと思いますか?僕は、僕には到底、そうは思えなくって、憎い、憎いのに、僕から全てを奪ったのは奴なのに、許せないのに、____こんな、こんなどうでもいい暖かさを、不甲斐ない僕は捨てられない!」
血が煮えくるほどの恨みの中で、コーヒーの底にとけ残った砂糖みたいに、奴の穏やかな声が、乾いた手のひらの温度が、笑った目元の皺が、確かな存在感を持って僕の中にざらざらと居座った。
一息に叫んだ。なんだか怖くて、彼の目を見れない。だけど、このまま1人でぐるぐると囚われる方が、ずっと。
「……わかんねぇよ、俺には」
ややあって、ぼそりと虎徹さんが零す。
「マーベリックが考えていたことなんて分かんねぇよ、これっぽっちだって。でも、それでも、関係のない市民を巻き込んだことは、間違いだ」
「まちがい」
「そうだ。それだけは胸張って言える。どんな理由があろうと、マーベリックが関係のない市民を巻き込んだことは、絶対に間違いなんだ。絶対に。」
間違い。ゆっくり頭の中で転がしてみせる。真っ直ぐ前を見据える琥珀色の瞳をじっと見つめた。濡れた眼球は、つやつやと光って美しい。宝石みたいだと思った。その宝石に、ずっと、映っていたい。そう思った。
「羨ましいです」
「あ?」
「そんな風に、揺るぎないものを持っていることが。僕には、そんなもの、どこにもないから」
「あったり前だろ、お前まだ若いんだから。俺、これでもお前より長く生きてんだぞ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだろ。…あ、それとバニー、飯作っといたから落ち着いたら食えよ」
「…食べます」
「おー、ラップして冷蔵庫入れとくから、いつでも…」
「今食べます。なんかお腹すきました」
「え、まじで?あんな吐いておいてよく……あ、お前着替えた方がいいな」
「…ですね」
とりあえず、シャワールームに2人で向かう。何作ってくれたんです?無難にお粥だよ。ごめんなー、林檎は買ってなかったわ。別に、いいですよ。
りんごの甘い匂いはしないけれど、代わりに米の柔らかい匂いが鼻についた。
絶対と胸を張って言えるものも、自分なりの正義も、僕にはまだ無いけれど、取り敢えずこの人のことを信じよう、この人の正義を信じよう。この人が絶対と言うものならば、僕は胸を張って正義と言える。そう思った。