SS

□食べたい
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神隠しとは、人が前触れもなく突然姿を消す事をいう。
神や物の怪の類は信じていないが、人知の及ばぬ力は存在すると名前は信じている。
例えば、故意的に人を傷付けた後に階段から落ちたり、自己防衛が行き過ぎて人を泣かせた後にお金を落としたりといった事が起きた時は、その目に見えぬ力が働いているのだ。
今日は職場で嫌いな奴の悪口を広めてやったし、給湯室に置いてあった休憩用の茶菓子を誰の許可を取る事もなく大量に奪ってきてやった。
もしかしたら、今日もその人知の及ばぬ力とやらで自分は成敗されるかもしれない。
名前は静かなロビーを歩きながらそのような事を考えていた。
階段を登って直ぐ右手にある部屋に入れば、幾つものショーケースや展示品が余裕を持って並んでいる。
閉館15分前だというのに、博物館には未だにちらほらと人が残っていた。
名前はショーケースに張り付く人達を避けるようにして、中の展示品を見ていく。何振りもの刀が、綺麗に揃えて飾られている。刀の隣には銘々や刀身の長さといった情報の書かれたパネルが置かれていた。
名前はそれに目を向けるが、知っている名や用語を見つける事は出来ない。
こうして偶に、名前は仕事を早退して気分転換にと博物館に来ていた。人に嫌な事をしてしまった日には特に此処に来て展示品を眺め、頭を空っぽにする。そうする事で心が落ち着き、自分の体を包もうとしていた黒い靄が霧散するような気がするのだ。
それにしても、今日は特別に人が多い。平日の閉館前の時間といえば、何時もであれば建物を出るまでに10人と出会えば良い方なのだが、現在この場には5人以上の客が居る。それは次の展示部屋に移動しても変わらず、寧ろ出口に近付く度に人口密度が徐々に高くなっていった。
展示品を素通りしていく者も少なくなく、名前は皆のお目当ては一体何なのだろうと興味を持つ。
その答えは最後の展示部屋で解った。部屋の一番奥に設置されたショーケースには20程の人が並んでいる。其処から少し離れた場所で黒いスーツを着た男女が数名と警備員の男性がその列を見守っていた。
近くでケースの中の展示が見たければ、その約20人の後ろに加わらなければならない。館内アナウンスは残り10分で閉館する事を仕切りに告げていた。列の先頭の女性は慌てる様子もなく、その展示を食い入るように見ている。
期間限定で開催されている刀展には、二百振りを超える刀が展示されており、それの目玉となるのが人だかりの出来ているショーケースに飾られた三日月宗近であった。本日が最終日というのもあって、博物館に残った人々は皆その一振りを目に焼き付けようと真剣である。
間近で見るのを諦めた名前や他の客は、列の後ろからその刀を見ようと背を伸ばしたり体を揺らしたりしてみたが、並んで見ている人達の頭に隠されそれは叶わなかった。
仕方がないので最後の展示は見ずに帰ろうと踵を翻した所で、誰かにぶつかる。
名前はチッと舌打ちをしそうになるのを堪えて頭を上げれば、青いアシンメトリーの髪型をした背の高い男と目が合った。男は髪と色が揃いの着物に身を包まれている。驚き周囲を見れば、黒服を着た男女四人と列に並んでいる幾人かが自分と同じように目を丸くして彼を見ていた。その他の者は我関せずといった顔をして刀を見たり、警備をしたりしている。
彼等はこの舞台役者のような格好をした男の事が気にならないのだろうか。警備員に至っては怪しい人物を注視しない等、完全に職務怠慢である。
「俺を見ずに帰るのか」
「は?」
男が喋った。名前と目が合うと、男はにこりと笑う。
男の相手をしてはならないと判断した名前は、その横を無言で通り過ぎようと足を踏み出した。視界の端にスーツの男女が駆け寄ってくるのが映る。
次の瞬間、名前は白い靄の中に立っていた。背後を見やれば、石畳の階段が下へと続いていたが、先が真っ白で見えない。
前方に立つ大きな鳥居へと近付くと、その真ん中に青い男が居た。
「俺の名は三日月宗近。まあ、天下五剣の一つにして、一番美しいともいうな」
「はぁ」
「うむ、せっかく来たんだ。ゆっくりしていくと良い」
そう言い男が名前の手を取る。その途端にぞわぞわと鳥肌が立ち、咄嗟に握られている手を振り解こうとするがビクともしない。
「離せよ」
「はっはっは、元気なのはいいことだ」
「離せってばっ」
名前の台詞を無視して、男は鳥居を潜り、社へと向かっていく。名前も男に引き摺られるような形でその後に続いた。
男は社の横に回ると、草履を脱ぎ、階段を登り中へ入ろうとする。名前は繋がれたままの手を一瞥した後、苛立つ心で男を見た。男の思惑通りに自分も建物へ上がる事になるのであれば、いっそ靴は履いたままで、部屋中に土足の跡をつけてやるのがいいかと名前は考える。
「ふむ……そのまま上がってもいいが、2本の足が無くなった身体で床掃除をしてもらうことになるぞ」
男が名前に笑いかけた。大切にしている花に向けるような綺麗で優しい微笑みである。
大人しく男の言いなりになるつもりのなかった名前だが、その言葉で反抗する気が失せ、静かに靴を脱ぐ事にした。


「よく来ているらしいな」
「は?」
「博物館だ」
「ああ」
男が手にした急須を揺らす。
自分が定期的に博物館へ顔を出しているのを誰から聞いたのだろう。
名前はふと浮かんだ疑問を吐き出す事なく飲み込んだ。この男に求めても意味のない事のように思えたからである。
「落ち着くから」
「ふむ」
「それで」
「なるほど」
何がなる程なのだろう。その思いも自分の中で消化する。
何時の間に注いだのか、男はお茶の入った湯呑みを名前の前に置いた。
名前は男にありがとうと小さく呟くと、それを口に含む。そうすると、博物館で展示品を見ている時のように、自分の体に蔓延っていた黒い靄が逃げていくような感覚を覚えた。それと同時に、自分の体に纏わり付いていた息苦しさが消える。
男が名前に近付き、その肩を優しく押し倒してきた。何事かと名前が見返せば、男はにこりと笑うばかりである。
「いやいやいや、何してんですかっ」
名前は慌てて男の体を押し返した。今此処で男と距離を取らなければ取り返しのつかない事が起きる。
しかし、どれだけ腕に力を入れても、男の体は微動だにもしない。
「何もないが」
「何もない事ないでしょうっ」
「する事は一つだ」
「いやだから、誰がすると……」
名前は台詞の途中で、男の目が変わったのに気付いた。
青い瞳に浮かぶ黄色の三日月が、存在を主張するように色を濃くする。
その月の変化は、名前の意識を惑わせた。目の前に居る男が、良く知る人物のように思えてくる。
「今まで、辛かったか。苦しかったか」
男の手がそっと名前の頬を撫でた。その手の温もりを感じる度に体が軽くなり、目頭が熱くなる。
「ならば、俺と居ればいい。そうすればお主のそれは綺麗なままだ」
次第に頭の蕩けていく名前の瞳から涙が溢れた。男はそれを親指で拭うと、名前の額、目尻、頬、顎と順番に口付けを落としていき、最後にそっと唇を重ねた。
男は愛しそうに名前を見つめる。
そうして、名前が完璧に綺麗になった頃に男は食べてしまうのだろう。味を忘れない為に何度も咀嚼して、次に男が人を迎える時まで、ゆっくりと時間を掛けて嚥下する。人は男に溶け込む事が究極の幸せであると信じ、男は自分の中が天国であると取り込みながら証明するのだ。
名前は両手で男の顔を遮る。指の間から驚いた男と目が合った。
「くそ喰らえだよ。これは生まれつきのもんだから」
名前は知らぬ間に外されていたジャケットとシャツのボタンを止める。何て手の早い男だと悪態をつくが、男は未だに衝撃を受けているのか名前の言動に反応を示す事なく、前を向いたまま呆けていた。
「ねぇ、階段を降りていけばいいの? そしたら博物館に帰れる?」
「…………ああ」
名前が質問をし、漸く男が声を発する。
名前はそれを聞き、安堵すると、これ以上此処には用がないと急いで立ち上がった。
よく考えれば、名前を社まで連れてきた青い男は、世間一般でいう誘拐犯である。男の目的は知り得ないが、金品を略奪されたり、殺されたりする前に逃げた方がいいのではないか。
慌てているのを隠しながら、のんびりとした足取りで名前は部屋を出た。背後の男が動く気配はない。
階段を駆け降りる。自分以外の人間と出会うまでは靴を履く時間も惜しい。怪我をする可能性もあるが、社を出たら素足で一目散に鳥居の外へと向かうのが得策だろう。とにかく他に人を見付けなければならない。
名前が靴を手に取り、走り出そうとしたその時、後ろから小さな声がした。
「いいなあ」
雛鳥の甲高い鳴き声のような音を立てながら、体内から一斉に黒い靄が逃げていく。名前は助けを求めて手を伸ばしたが、実体を持たないそれらを掴む事は出来ない。
後ろから男に抱き締められた。乾いた筈の頬が、新たな雫で濡れる。
宙を彷徨う名前の手は、男によって静かに下ろされた。






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