実家

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「といれとは……なんのはなしですか?」
少年の赤い瞳が黒闇で光る。森は恐怖で下半身の緊張が緩むのを感じ、慌てて全身へ力を入れた。
「え、えーとっ、だから、トイレに行きたいなって……」
「いいえ、いまはそのといれではなく、ぼくのあそびにつきあってもらいますよ!」
話が噛み合っていない。
少年が立ち上がり手を引こうとするのを、森は咄嗟に拒む。周囲を漂う臭いが僅かに強くなった。
「いや違うっ、いや違わないけど、遊ぶ前にトイレ……」
言葉に詰まった森を、少年は上から醒めた目で見下ろす。
その冷ややかな面持ちを前にした瞬間、強烈な尿意が森を襲った。これ以上は耐えられそうにないと、森は藁にもすがる思いで声を上げる。
「すみませんっトイレに行かせてください! すぐ戻るんで! すみません、お願いします……! すぐ戻ります……!」
返答を待たずに、腹這いになり、廊下へ出ようと移動する森の足首を少年が掴んだ。離してくれと脚を揺らすがビクともしない。
「ホントッ漏れそうなんでっ頼みますお願いします……! 漏れそうですっ」
森は足の付け根の辺りで手を払う仕草をする。相手は刀であると自分に言い訳をするも余り意味がなく、羞恥心に森の目が潤んだ。
「ああ、はこしたいのですね」
少年が納得したように頷く。
「わかりました。それがおわったら、ぼくとあそんでくれるんですよね?」
森は少年の問いに大袈裟に頷いて見せた。言葉を話す時間ももどかしい。
「でしたら、バビューンといっちゃいましょう! ふふふ」
少年の笑い声を合図にするように、闇に包まれていた室内が明るくなっていく。
少年は縄の端を森の顎の下から後頭部を通り、元の位置へと回すと、僅かな余裕を持たせて固く結んだ。
適当な長さで縄を切り、先程とは反対の端を手に取った少年は、機嫌の良い日に犬の散歩へ行くような様子で森を振り返る。
「ではいきますよー!」
「あ、はい……お願いします……」
森は自分の首の周りに出来た輪に視線を送りながら、少年の後へ続いた。


一歩を踏み出す度に、木の軋む音がその場に大きく響く。
森と少年は、松の襖を開け、廊下へ出ると、其処を一直線に進んだ。
少し歩くと、左手に玄関が現れる。其処から更に移動すれば、右手に二階へと続く階段があった。
その横を通る際に、廊下から二階部分を伺うが、真っ暗で森には何も見えない。階段の奥から、重苦しい空気と嗅ぎ慣れた悪臭が降りてくる。
自然と歩みの遅くなった森が気になったのか、先を行く少年が縄を軽く引っ張った。
「そっちにいってはだめですよ!」
早口でそう告げる少年は、まるで動物の飼い主のようである。
反発する意思は無く、膀胱の強い訴えに背を押されるように、森はその場を離れた。今は余計な事に気を取られるべきではない。森は少年に引かれるまま、無心で足を動かす。
廊下の端には、破れた障子が何枚かと、その外側に割れたガラス戸が十枚程横に連なって並んでいた。当然のように赤茶色の染みが所々に付いている。其処を左に曲がれば、直ぐ側に古びた木の引き戸が、右側の奥に目を向ければ、大きなすりガラスの引き戸が森の瞳に映った。
少年が木の引き戸を開ける。その中には、和式便器が備えられた三つの個室の他に、五つの男性用便器と三つの洗面台が壁に接して設けられていた。個室は上下五センチ程の隙間が開いた木製の仕切りと扉が取り付けられている。どれも汲み取り式便所ではなく、水洗式便所であった。森はかつて使用した事のある様式の便器を目にし安堵する。
「ここでまっているので、おわったらでてきてくださいね」
少年が洗面台の隣で止まった。縄の端はしっかりとその手に握られている。どうやら離す気はないらしい。
森は三つ並ぶ個室の一番左に入った。しかし、縄が挟まれ、扉をきちんと閉められない。短く飛び出た麻がチクチクと森の首を刺激する。
森は仕方無いと鍵を諦め、足の先で扉を固定した。扉を挟んだ向こう側に少年が居ると意識すれば、用を足すのに多少の抵抗感が生まれる。
其処に居るのは刀であり、自分と同じ生き物ではない。森はそう脳内で唱えると、目的を達成するのに集中する事にした。


個室の外に出るか否か、森は悩む。
政府の人間が救出に来るまで、このまま此処で時が経つのを待てばいいのではないか。
そう考え、水を流し、衣類を整え、立ち上がった時、森を追うように縄が動いた。扉を開き、それを引っ張ってみれば、その端はすんなりと森の手元まで辿り着く。
森が恐る恐る個室の外へと顔を出すと、数分前の陽気さを完璧に潜めた少年が自分の手の平を見つめながら先程と同じ位置にじっと佇んでいた。室内と廊下に闇が広がり始めている。
「おっ、でてきましたね」
少年は突っ立ったまま動けずにいた森へ近付き、刀を抜くと、その首を捉えている縄を切った。
「あなたがここからでたさんじゅうびょうごに、ぼくもここからでます。ちゃんとおおきなこえでかぞえますから、あんしんしてくださいね」
薄暗い視界に、能面のような顔付きをした少年が映る。先刻までの自分とは矛盾しているが、自分の肩下辺りまでしかない身長のこの幼い少年が、実は人の子なのではなく刀の化身であるのだと考えると、森の肌が泡立った。
「さあ、いってください。ぼくとあそびましょう〜」
少年の声に背を押されるようにして森は走り出す。
三十秒しかないのである。出来るだけ少年の居る場所から離れるべきであろう。
そういえば、自分が勝ちを手にする為の条件を少年から聞いていないと森は思い出したが、もう一度トイレに戻る勇気は出なかった。






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