私の中の永遠

□プロローグ
2ページ/5ページ



ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。水音が何処からか響いている。

「きゅきゅきゅ、きゅぅ、きゅきゅ〜!」
「う、うーん…イーヴ…?」
「きゅう!」

生暖かい何かを頬に感じ、静菜はのろのろと目を開けた。琥珀色の瞳と目があった。視界いっぱいに、イヴリンの顔がぐぐっと映っている。

「きゅううううっ!」
「わ、わぶっ!?待ってイーヴ、落ち着いて!」

べちゃべちゃに顔を舐めまわされ、静菜は悲鳴を上げた。傍に転がっていたバッグから手探りでハンカチを取り出し、顔を拭う。化粧が取れてしまったから、後で直さなくては。メイクはよくわからないが、一応女の子の嗜みとして少しずつ勉強はしている。
さすがにやりすぎたと思ったのか、イヴリンはしょんぼりした。三角形の耳や尻尾がへにゃんと力なく垂れていて、その愛らしさに静菜はさっきまでこみ上げていたはずの怒りが霧散してしまった。

「イーヴ、おいで」
「!」

ぱたぱたと嬉しそうに飛び寄ってくるイヴリンを、静菜は両腕で抱き留めた。

「もう、お化粧している時にほっぺを舐めるのはだめよ」
「きゅう」
「それで…ここはどこなのかしら」

今更ながらに静菜は周囲を見回した。
薄暗い中積み重なったトタン板や廃材、使われているかもわからない配管に、生ごみのすえた匂い。ここはどうやら、ビルとビルの間に挟まれたどこかの路地裏らしい。
すぐ表は道路らしく、自動車の行き交う音や、人の話し声が聞こえてくる。それがどうやら聞き慣れた日本語らしい事に、静菜は腰が抜けそうなくらい安堵した。

「良かった…私、戻って来たのね」
「きゅっ!」
「でもあなたもこっちに来ちゃったのね。困ったわ。…そうだ、お父さんに連絡しないと。近くにいるかしら…」

静菜は慌てて携帯を取り出したが、画面は相変わらず圏外のままだった。

「え、どうして?さっきの衝撃で壊れちゃったの?」
「きゅう」
「仕方ないわ、公衆電話を探しましょう。お財布もあるから、ここが都内なら家まで自分で帰る事だってできるわ」

静菜はほうと息を吐き、ざっと化粧を直してから路地裏から出ようと歩き出した。

「ああ、どうしましょう。あなたも一緒なのよね。人目に触れたらパニックになるわ」
「ぎゅー…」
「ともかく、ちょっとの間ここで大人しくしてちょうだい。どこかで紙袋か何かを買ってくるわ。それに入って、取りあえず家まで連れていくから。あのおじいさんと何とかしてもう一度会えればいいんだけど…」

寂しげな姿に申し訳なくなるが、ドラゴンが街中をふよふよ飛び回る姿を目撃されでもしたら、10分も経たずに写真がネットに広まり大パニックだ。良くて研究所送り、悪くすれば殺処分されかねない。ここは心を鬼にして、努めて言い聞かせてやる。
しかし路地裏から表の世界に一歩踏み出した静菜は、そこで目にしたあまりにも意外な光景に絶句した。

「…は?」

ずらりと立ち並ぶビル群、行き交う自動車と通行人のざわめき。そうやって大雑把に見れば、静菜の生まれ育った東京の景色と変わりない。だが、細部があまりにも記憶のそれと違っている。
何故、通行人やビルのディスプレイ、ポスターなどの人の姿が皆和装なのか。何故、明らかに人間には見えないうねうねと何本もの触手を持ったエイリアン(みたいなもの)や獣人(犬型)が堂々と街を闊歩しているのか。そしてビル群の向こうに聳え立つ、あまりにも巨大な塔のような建造物。そしてその上空には、様々なフォルムの飛行船(気球などではない、完全金属製。無重力装置でもない限り何故落ちないのか理解できない)がふよふよと飛び回り、時には噴射煙の尾を長く引いては空の彼方へと飛び立っていく。

「…」

静菜はたっぷり10数える間その場に立ち尽くした後、ふらふらと覚束ない足取りで路地裏に戻った。ぱたぱたと寄ってきたイヴリンを抱き留めたまま、「あああああ」と地の底まで届きそうな低い声を絞り出す。
これはまさかアレか、アレなのか。ネット小説やラノベで今トレンドの――。

「やっちゃった!やっちゃったわ!ここ東京違う!似てるけど違う!どう見ても異世界だわ!異世界トリップよ!あぁあああどうしよう…」
「きゅー」
「あのおじいさん、どういうつもりで私をこの世界に?そう言えばお父さんがここにいるみたいな口ぶりだったけど…だとしても、どうやって探せって言うの?」

あまりの衝撃に、さすがに脳が限界を訴え出したらしい。静菜は手近な廃材の上に座り込み、ずきずきと痛むこめかみをおさえた。イヴリンはそれを気遣うようにきゅう、と泣いてはぺろぺろと手を舐めてくる。ほっぺは舐めるなという言葉を律儀に守っているらしい。
しばらく頭を抱えていた静菜だったが、その体勢もいい加減腕が痛くなってきて、ため息を吐きつつ顔を上げた。

「…と、とにかく、ここでこうしていたって良い事なんて一つもないわ。じきに日も暮れるでしょうし、こんな格好で野宿したら風邪をひいてしまうかもしれない。でも未成年でホテルなんて泊まれるかしら。そもそも日本円を使えるかもわからないし…」
「きゅう…」
「…とにかく、街に出てみましょう。何はさておき情報を集めないと、お父さんを探すどころじゃないもの。どうしようもなくなったら最後の手段で警察に行けばいいわ。頭のおかしい娘扱いで病院送りにされるかもしれないけど、少なくとも飢え死にする事はないでしょう」
「きゅ!」

あまりにあり得ない事態に遭遇すると、人間は頭が麻痺するものらしい。一周回ってテンションを上げた静菜は、今度こそ路地裏から出てみる事にした。。
ちなみに静菜とイヴリンが通ってきたはずの白木造りの扉は、いつの間にか消えていた。あれを使えば、もう一度あの扉が連なっていた空間に戻れると思うのだが。

「どこかでひょっこり見つかればいいけど、そんなうまい話があったら人生苦労しないわよね…。世知辛い世の中だわ…」
「きゅー」

イヴリンはさてどうしようかと思ったが、どうやら人間以外の謎のモンスターがウロウロしていてもそれほど目立たないようだったので、「大人しくしていてね。絶対に人を襲ったりしちゃだめよ」と言い聞かせ腕に抱えていく事にした。
恐る恐るながらも街を歩いてみると、色々と分かった事もあった。この世界は、文化レベル自体は元の世界とほとんど変わらないようだ。24時間営業のコンビニや銭湯、映画館などが立ち並び、ガス、水道、電気などのインフラも完備されている。なのに道行く人の服装は和装で、さきほどちらりと通りの向こうで見たひったくりらしい男を追いかけていたのは、時代劇に出てくるような十手を振りかざした同心だった。静菜から見るとあらゆる意味で物凄くアンバランスな世界観である。生まれた時からこの世界しか知らないのなら、これが当り前だと思って疑問も覚えないのだろうが――。

「(現代文明と時代劇が化学反応を起こしてとんでもない感じになってるわ…)」

悪い事に、道端でアクセサリーを販売している露店の会計の様子をちらりと盗み見て分かったのだが、どうやらこの世界の貨幣は静菜の世界のそれとは違うようだ。その客が差し出した小銭は、教科書の挿絵で見たような江戸時代の古銭に似ていた。少なくとも、現代日本の五百円玉や百円玉とは明らかに違う。

「(できればそこも現代に合わせてほしかったわ…!)」

嘆いたところで、このままでは自販機でドリンク1本買う事すらままならない、という絶望的な現実は変わらない。
さすがにヘヴィーな気持ちでとぼとぼと歩いていると、四方八方から視線を感じた。腕に抱えたイヴリン、というより、静菜自身に注目が集まっているようだ。確かに老若男女9割9分が和装の中で、フォーマルな若草色のワンピース姿に、髪を緩くまとめた静菜の姿は恐ろしく目立っている。と言うより浮いている。

「(こ、困ったわ…でも着替えるわけにもいかないし。こうなったらトラブルに巻き込まれる前に警察署に駆け込むしかないわ。覚悟を決めるのよ、静菜!…ああ、イタズラか頭おかしい人だと思われそう。どうして私がこんな目に…)」

自分を励ましつつ、取りあえず適当な人に警察署の場所を聞こうとしたのだが。運の悪い事に、トラブルがあちらの方から静菜の下へとやって来たのである。

「おいおいどーしたよお嬢ちゃん、なんかお困りかい?」
「いけねぇなあ。あんたみたいなかわいこちゃんがお供もつけずにこんな所をうろつくなんてよ。俺達みたいなこわーいオニイサンに目ェつけられちまうぜ?」
「随分小奇麗な格好をしてるじゃねぇか。いったいどこのお嬢様だ。ちょいとそこまで付き合ってくれや、たっぷり身体で聞かせてもらうぜ」
「おいおいどこの助平親父だよ!」
「お前こそ、何を想像したんだっての!」

どこからともなくワラワラと現れて静菜の前に立ち塞がったのは、いかにも破落戸と言った風貌の、三人の若者だった。どれも安物っぽい着物をだらしなく着崩して、身体のあちこちに入れ墨を入れ、耳や鼻、唇にはピアスを付けている。そしてその顔には、揃って下卑たにやにや笑いが浮かんでいた。

人生初のナンパ、というよりもっと低俗な絡みに、静菜は動揺した。腕の中のイヴリンをぎゅっと抱き締めながら、一歩下がる。怯えた小動物のような降るまいに、男たちの笑みが深くなった。

「…すみません。先を急いでいるので、そこを通してもらえませんか?」
「そんなつれない事言うなよ。…ん?何だそりゃ。珍しいモン抱えてるじゃねぇか、お嬢ちゃん」
「どこぞの天人から買い上げたペットか?こりゃあいい、そこいらのブランド品なんかより断然高く売れそうだ」

あまんととは何の事だろうかと思いつつ、静菜はイヴリンを抱きしめる腕に力を込めた。ぐるる、と仔ドラゴンは低い唸り声を上げる。

「い、イーヴ、いい子だから大人しくして。大丈夫よ」

鋭い牙と爪を本気で向けたら、人死にが出かねない。そうなったら過剰防衛どころでない騒ぎになってしまうだろう。
ちらりと周囲を観察するも、目が合いそうになった通行人はそそくさとその場を立ち去ってしまう。無理もない。誰だって厄介ごとに首を突っ込みたくないのは当然だ。それはわかるが、誰も助けてくれる人はいないのかと、絶望的な気持ちになる。

「オラ、手間掛けさせるんじゃねぇよ」

一人に強い力で手首を掴まれる。このままでは手近な路地にでも引きずり込まれるのは時間の問題だ。恐怖で息が詰まった、その瞬間。

「…ん?何だてめぇは。俺達の邪魔をすんじゃねぇ!とっとと失せろ!」

破落戸の一人の喚き声に、静菜はとっさに不良の腕を振りほどき、彼の視線をたどるようにして振り向く。
そこには木刀を腰に差した、一人の男性が立っていた。



次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ