青薔薇は焔に散る

□第一章
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かつてこの水の星は、滅びの炎に包まれた。
ある日突如発生した業火は瞬く間に世界各地を包み、数多の大陸が、島々が、跡形もなく消滅した。数えきれない多くの生命が、国が、文化が文字通り灰塵と帰したのだ。
まさしく存亡の時。もはや人類の繁栄もここまでと思われたが、傷ついた人々に救いの手を差しのべた者がいた。ーーラフルス1世。彼は太陽神を崇める“聖陽教”を広め人々の心に安寧をもたらし、限られた生存可能区域である極東の島国に国を興した。それこそが“東京皇国”。エイレーネの祖父ラフルス3世が統治する、人類最後の砦である。


◇◇◇


麗らかな昼下がり。皇王庁の一角、一般皇族の居住区に、エイレーネ・フレイアの姿はあった。
窓から差しこむ春の日差しが、磨いた金貨のような黄金の髪を柔らかな色合いに染め上げている。一部だけ編み上げて背に下ろし、青薔薇の造花で飾った豪奢な金髪は、皇王ラフルス三世の第二皇子である父譲りのものだ。
すべらかな額をよぎる金細工の頭環。小さな耳朶を飾る水晶の耳飾り。髪と同じく金色に染まった睫毛が、澄んだ冬空を映した青い双眸を縁取っている。染みひとつない肌は雪花石膏のよう。凛とした花顔は微笑みを浮かべると、磁器人形じみた無機質さがふわりとほどけ柔らかな印象となった。
まさしく“皇国の青薔薇”と謳われるのに相応しい、お伽噺の世界から抜け出たような美姫。しかし今、エイレーネが居るのは薔薇の咲き乱れる庭園でも、皇室楽団の調べとさんざめく笑い声に満ちたサンルームでもなく。本棚がずらりと並ぶ自身の執務室だった。
小柄なエイレーネにはあまりにも大きい執務机につき、麗しの薔薇姫は山と積まれた書類を次々に捌いては決裁箱に入れていく。
傍らに控えるのは白髪を綺麗に後ろへ撫で付けた、長身の執事であり、秘書官だ。彼の名はハロルド・ブライ。エイレーネが幼い頃から仕えてくれている、血縁の誰よりも“家族”と呼べる存在である。

「殿下、宮内省副大臣より書状が届いております」
「後で目を通しますわ、そこに置いてくださいな。じいや、昨年度の児童福祉会議の資料を取ってくださる?能力者の未就園児、不就学児調査の部分をお願いしますわね」
「かしこまりました。それから殿下、15時に予定されていた中央新聞のインタビューですが…」

急遽中止の申し入れがあった、との言葉にエイレーネは筆で書いたような柳眉をしならせた。

「なんでも本社で“焔ビト”が出たとのことで。すでに第一によって鎮魂された模様ですが、事後処理に追われているようです」
「まあ、それはお気の毒に。わたくしはお悔やみ状を認めるので、じいやは香典を用意してくださいな」

“人体発火現象”ーー。大災害より二百数十年に渡り、辛くも生き延びた人類はこの災厄に苛まされてきた。
老若男女を問わず、突如として人の身体が炎に包まれ、命尽きるまで周囲を焼き尽くす炎の怪物“焔ビト”となってしまう怪異。その原因も治療法も不明とされ、現状では身体のどこかにあるコアを破壊し、“鎮魂”する他ないとされている。
“焔ビト”の対処に当たるのは、特殊消防隊の消防官たちだ。彼らは主に炎に適合し、自在に操る能力者たちによって構成されている。東京皇国軍・消防庁・国教である聖陽協会の三組織によって設立され、皇王の認可によって成り立つ公的機関であり、すなわち皇家との結び付きは強い。
対特殊消防隊の繋ぎ役ーーあくまで形であり、実務的な権限はほぼないがーーの役目を受けたエイレーネは皇家の代表として、消防隊関連の施設を慰問したり、会議に顔を出したり、式典に出席し祝辞を述べたりと、何かと消防官らと関わる機会が多かった。
煩雑な役目を嫌い、特権階級の恩恵を享受して怠惰な日々を過ごす皇族は数多いる。けれどエイレーネはあえてこの役目に立候補した。己の願いを果たすためには大変好都合だったからだ。

「スケジュールが空きましたが、いかがなさいましょう。夜は法務大臣夫人主催の夕食会に招待されていますので、それまでの間となりますが」
「そうですわね…」

喫緊の書類は一通り処理している。とは言えエイレーネの公務のスケジュールはキツキツだ。来週予定される退役軍人病院への慰問の準備に、東京皇国学術振興会の授与式での式辞を考えなければならないし、整理したい資料もたくさんある。だがーー。
エイレーネは愛用の万年筆を手に少し考え込んだが、すぐに顔を上げた。

「第8特殊消防隊本部に向かいます。桜備大隊長に連絡を」

何事にも優先順位はあるものだ。万年筆のペン先を丁寧に拭い、席を立つ。
侍女の手を借りて普段着のワンピースから外出用の白のドレスに着替えたエイレーネは、護衛を呼ぼうとしたのだが。

「十六夜は何処ですの?」
「それが、お姿が見当たらず…」

そこにタイミングが良いのか悪いのか、ドーナツの袋を抱えたパンツスーツの女性がドタバタと現れた。艶やかな黒髪をバレッタで留め、眼鏡の似合う涼やかな美貌の持ち主だ。すらりと長身でスタイルも良く、いかにも“デキる女性”的な雰囲気なのだが、口にくわえたクリームドーナツが全てを台無しにしている。

「むぐ、むぐぐ」
「あら、お帰りなさい十六夜」
「ごくん。あ、あ〜、姫様。どうして着替えてらっしゃるんです?もしかして…」
「十六夜、あなたという人は…!」

ハロルドに猛禽類のごとき鋭い目で睨み付けられ、皇孫エイレーネ・フレイア付きの護衛、十六夜・バーンズは震え上がった。

「あなたは殿下の護衛でしょう!お側を離れるとは何事ですか!」
「ご、ごめんなさい〜。ちょっとお使い行ってもらってたドーナツ、受け取ってただけなんですぅ。サボりじゃないですよ〜」
「護衛対象の殿下から離れた時点で、サボり以外の何ものでもないではありませんか」

ハロルドの正論にも、呑気な十六夜は動じない。相変わらずドーナツの袋を抱えたままおっとりと言い募る。

「大丈夫ですよ〜。ちょっと離れてても、殺気くらいすぐ掴めますもん。だいたいハロルドさんなら暗ーー」
「こほん。…十六夜?」
「…漫画みたいな暗殺者が襲ってきたって、返り討ちにできるじゃないですかぁ」
「それとこれとは話が別です。まったくあなたときたら、殿下がお優しいのをいいことに…」

延々続きそうなお説教を、エイレーネは笑顔で遮った。

「まあまあハロルド、そのくらいで許してあげてくださいな」
「姫様〜っ…」
「十六夜。あなたも席を外す時は一言言ってくださいね」
「ううっ、ご、ごめんなさい〜」

こんな調子だが、十六夜はやるときはやる人間だ。それに“エイレーネ殿下の護衛は役立たず”と周囲から思われていた方が都合のいいこともある。
内心はおくびにも出さず、エイレーネは日傘を手に十六夜を促したのだった。



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