下書き

□お前が知らないお前を知っている
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「ねえ晴信、私とキスしてくれませんか」
「ガフッ!?」

武田晴信は飲みかけのビールを盛大に噴き出した。液体が気管の変な所に入ってしまったらしく、ゴホゴホと涙目でむせる。
たった今爆弾発言を落とした女、長尾景虎は、「汚いですね〜」などどケタケタ笑いつつ、布巾で飛び散ったビールを拭く。控え目に言って殴りたい。

「…っ、お、お前…ゲホッ、何を…」
「あ、ひょっとして意味わかりません?キスっていうのはですね〜、いわゆる口吸い…」
「わかるわボケ!馬鹿にするな!」

一瞬「魚の“鱚”であってくれ」と現実逃避してしまったが、やはりそちらの意味だったらしい。まだ大して飲んでいないにも関わらず、頭痛を感じた晴信はこめかみを抑えた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。この女の言動にいちいち過剰反応していては身が保たない。
なにせ、己がカルデアに召喚されてよりこの方、毎日のように押しかけてはやれ戦闘シミュレーターで川中島だ、やれ酒盛りだと、こちらの迷惑も顧みずに喚き立てるのだ。まったく、誰かなんとかしてほしい。
ーーもしこの場にマスターなり、他のサーヴァントなりがいたのなら。「文句言いつつ、本気で跳ね除けないでなんだかんだで受け入れるから、彼女だって甘えるんだろう」と呆れるのだろうが。晴信自身には、そのような自覚は欠片もなかった。

「…で。なんでそんなトチ狂った言い出したんだ。俺とお前は間違ってもそんなんじゃないだろうが」

生前晴信がこの女と対峙したのは常に、血と硝煙の匂いが漂う戦場だった。
人としての生を終え、サーヴァントとなった今でも、鮮明に思い浮かぶ。豊かな銀髪を靡かせて、白馬に跨り、槍を構えたその姿。女の身でありながら、この武田晴信と互角に渡り合った越後の軍神。
災厄が人の形を取ったような存在だった。見目こそ麗しい女人の姿をしているが、晴信にとって長尾景虎は“長尾景虎”以外の何者でもない。生涯の宿敵であり、カルデアに召喚された今では、目いっぱい好意的に見て腐れ縁の仕事仲間、と言った所か。




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