私の中の永遠

□プロローグ
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「…あら?」

ふと気付いた時、仁礼静菜は深い闇の中に一人ぽつんと立ち尽くしていた。
墨で塗り潰したかのような先の見通せない暗闇は、一片の光も差していなかった。右も左も、上も下もわからない。空気は暑くも寒くもなく、息苦しくこそないが風の流れも感じない。足元もどうにもふわふわと心もとなく、自分が踏みしめているものが地面であるのかすらも判然としなかった。
そのくせ、何故か自分の身体だけは内側に光源でもあるかのように、不思議とこの目で見て取れた。自分の着ているくるぶし丈のワンピース、そのレースの飾りまではっきりと。

「…夢?」

それしかないだろうと思ったが、頬を抓ってみると痛い。ペタペタと触ってみた自分の肩や手足にも、ちゃんと感触がある。肩に掛けたバッグの中身は、自分が確かに外出前に用意したものだった。夢にしてはやけにリアルすぎる。
だからと言って、こんな不思議空間が現実のものとも思えない。試しに「誰かいませんか」と暗闇に向かって叫んでみたが、返ってきたのは沈黙だけだった。これはいよいよおかしい。落ち着けと自分に言い聞かせながら、一体自分の身に何が起きたのかと、記憶をさかのぼってみる。

「(ちょっと待って、私は確か…)」

今日は、自分の17歳の誕生日だった。
登校すると、数少ない友人から祝いの言葉とプレゼントを贈られ、本当に嬉しかった。放課後はカラオケでパーティでもしようと誘われたが、申し訳なくも断った。重度のワーカーホリックな父が珍しく半休を取ってくれて、一緒にレストランで食事をとる予定だったのだ。だから制服から、こんな滅多に着ないようなフォーマルワンピースに着替えたのである。
娘の身びいきを除いても惚れ惚れするほど男前なブラックスーツ姿の父と二人、マンションのエントランスを出た。タクシーを呼び止めようと片手を上げた、その後ろ姿を確かに覚えている。その時突然、ぐらりと地面が揺れたような気がした。危ない、地震だと思い、振り向いた父に咄嗟に手を伸ばそうとして――。
だが記憶はそこで途切れ、静菜は気付いた時にはこの闇の中に一人で立ち尽くしていたのだった。
取りあえず携帯を取り出して見たものの、当然の如く圏外である。外部との連絡は取れそうにない。

「な、何があったの?まさか私…し、死んじゃったの?」

もしやここは、死の世界だとでもいうのだろうか。
涙ぐみながらオロオロと周囲を見回すも、助けてくれる人はどこにもいない。静菜はしばし呆然としていたが、途方にくれていても仕方ない、ととにかく涙を拭って行動を起こしてみることにした。夕食前でお腹が空いていたし、喉も乾いたし、このままでは餓死してしまうかもしれない。そう思うとぞっとする。

「…迷子になったらそこを動くなとは言うけれど…こんな所で突っ立っていたって仕方ないわ」

取りあえず前(と思われる)方向に歩き出してみたものの、行けども行けども自分を取り巻く暗闇にはまるで変化がない。まさかこの先死ぬまでずっと、この暗闇の中をさ迷わなければならないのか。さすがに絶望を感じ始めた時、不意に闇の果てにきらり、と何かが光った気がした。

「…?何かしら…」

恐る恐る近付いた静菜は、そこにあった意外なものに目を丸くした。暗闇の中、緑色の塊がぽてっと落ちている。
艶々と光る深緑色の鱗。にゅっと伸びた牙と鋭い爪。ゆるくカーブを描く二本の立派な角。丸っこいフォルムに、身体よりも大きな翼。しゅるっと伸びた長い尻尾。

「…え、何これ。…ドラゴン?」

そう、それはどう見てもファンタジー系漫画やラノベなどで登場する、ドラゴンの幼生だった。剥製やぬいぐるみではない事は、呼吸をするたびにその身体が小さく上下する事からも見て取れる。
革製の首輪が付けられているので、野良ドラゴンではなさそうだが…。そもそもドラゴンなどというものを生で見るのも初めてである。驚きすぎて感覚が麻痺しているのか、それほど衝撃は感じなかったものの、異様な状況であることには変わりない。

「(まあ、こんなわけのわからない世界だもの。不思議生物のひとつやふたついたっておかしくないわよね。私を食べちゃうくらい大きくなかっただけよかったわ)」

具合が悪いのだろうか。仔ドラゴンは地面に突っ伏したまま動こうとはしない。けれども、相手は子供とは言え牙と爪を持つ怪物だ。どうしたものかと思っていると、人の気配を感じたのか、仔ドラゴンが突っ伏していた顔を上げた。とろりと蜂蜜を溶かしたような琥珀色の瞳と目が合う。か細い鳴き声が聞こえた。

「…きゅう」
「か、可愛い…」

愛らしさに負け、そろそろと手を伸ばす。仔ドラゴンは思ったよりも大人しく、腕の中に納まった。片腕でも抱えられるほどの大きさだが、当然それなりの重みはある。けれどもそのずっしりとした重さとトクトクと音を立てる鼓動が腕の中にいるのが自分と同じ『生き物』である事を示していて、静菜は胸の中にわだかまった不安感がゆっくりと解けていくような心地がした。仔ドラゴンの首輪には銀色のプレートが縫い込まれ、金色に輝く丸い飾りが下げられている。流麗な筆記体で書かれた文字は、幸い静菜にも読めるものだった。

「EVERYN…イヴリン?それがあなたの名前?」
「きゅう」

まるで人の言葉が理解できるかのように、仔ドラゴンは短く鳴いた。異様な状況に人恋しさを感じていた静菜は、警戒心などうっちゃって仔ドラゴンに頬擦りをした。

「イヴリン、イヴ。可愛い名前。あなたは女の子なのね」
「ぎゅぎゅー!」
「え…もしかして、男の子なの?」
「きゅう」
「女の子みたいな名前なのね。…まあ、日本人も男の人で雅美さんとか、女の子で翼ちゃんとかいるものね。でも、だったらイヴちゃんより…そう、イーヴって呼んでいいかしら?」
「きゅっきゅっ!」

いいよ、と返事のように手のひらを舐められて、静菜はくすぐったさに少し笑った。
ふいにそこで、くーっと気の抜けるような音が響く。音は腕に抱えたイヴリンの腹部から発せられていた。

「あなた、お腹空いてるの?」
「きゅう」
「ごめんなさいね、あなたが食べられそうなものは何も…あるのはチョコ菓子くらいだわ」
「きゅきゅきゅっ!」
「え?これ食べたいの?」

静菜が取り出したチョコ菓子を、イヴリンは一口でぺろりと平らげる。普通、ドラゴンは肉食なのではないだろうか。まあとにかく、口に合ったのなら幸いだ。

「ねえ、あなたのご主人様はどこにいるの?教えてくれないかしら。私、どこにも行く当てがなくて困ってるのよ」

囁けば、イヴリンはこくりと頷いて静菜の腕から飛び立った。ふわふわと空を飛ぶ彼の後に付いて歩くうちに、暗闇の先が晴天の川面のようにきらきらと輝き出した。近付くにつれ、その光はますます数を増していく。やがて目の前に開けた光景に、静菜は息を呑んだ。

「…すごい…」

それは、暗闇の中に浮かび上がる無数の扉だった。建物の中に入るための物ではない。ただ扉だけが宙にふわふわと浮かんでいて、それが数え切れないほど延々と連なっているのだ。
扉は材質も装飾も様々で、大きさも大の大人が三人肩車しても届きそうにないほど巨大なものから、四つん這いになっても通り抜けなさそうなものまでバリエーションに富んでいる。静菜は何だか自分が『不思議の国のアリス』にでもなったような気分がした。

「この扉…ベタだけどやっぱり、ひとつひとつが異なる世界につながってるとか、そういうアレかしら?」

SF映画に出てくるような、意味不明なボタンやモニター付きの重厚な金属製の扉の隣に、中世のお城にでもありそうなロココ調の装飾過多な扉が並んでいたりする。けれど、開けてみたいと思っても実際は不可能だろう。何故ならどの扉も鎖でぐるぐる巻きにされた上に、頑丈な錠前が掛けられていたからだ。静菜の細腕ではどうやってもこじ開けられそうにない。

「それにしても…お父さんの姿がさっぱり見えないわ。ひょっとして、お父さんはここにいないのかしら?ちゃんと元の場所にいるんだったら、それはそれで良いんだけど」

しかしその場合、自分は干からびて死ぬまで暗闇の中一人きり、この扉の間をウロウロと彷徨う羽目になるのだ。ミイラ姿の自分を想像し、背筋に冷や汗が流れる。それは嫌だ。

不安に項垂れていると、イヴリンが再び「きゅう」と鳴いた。こっちにおいで、と言うように、ワンピースの袖口を引っ張ってくる。
彼の示した先を見て、驚く。無数の扉に囲まれた中に、唐突に一人の老人の姿があったのだ。
魔術師のような真黒なローブに長い白髪とあごひげを持つ男性は、飴色に磨かれた木製の椅子に掛け、テーブルに分厚い本を広げている。足元にも、同じく見知らぬ文字が背表紙に書かれた本が塔のように積み重なっていた。
この空間で初めて出会う自分以外の人間に、静菜は少しだけホッとした。言葉が通じる事を祈りながら、恐る恐る声を掛ける。

「あ、あのー、すみません」
「…おや?これは珍しい。客人などいつ振りだろうか」

老人は皺深い顔を上げ、にっこりと笑みを浮かべた。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、真冬の空のような、透き通った青色だ。優しそうな人柄と友好的な態度に安堵する。

「勝手にお邪魔してすみません。その、私、いつの間にかこちらに迷い込んでしまっていて…」
「ふむ…ほう…」
「え、ええと…」
「お嬢さん、なかなか良い相をしておりますな。…ふむ、これは興味深い」
「は、はい?」

ぐいと顔を近付かれ、思わず一歩後ろに下がる。いったい何なのだろう、この人は。

「おっと失礼。名前も名乗らずに、不躾でしたな。儂は××××と申します」
「え?」

老人の口から零れた奇妙な音の羅列に、静菜は失礼にも間抜けな声をあげてしまった。聞き慣れない発音云々ではなく、何故かはわからないが、まるで自分の頭で理解できない、不思議な名前だったからだ。確かにこの耳で聞いたはずなのに、さほど長い名前でもないのに、復唱しろと言われても絶対にできないだろう。

「おっと。“あちら”の方には発音できませんか。では、儂のことはアンブローシウスとお呼びください」
「は、はい。ご丁寧にどうも…。私は、仁礼静菜といいます」

なに画なんだかさっぱりわからないが、ともかく意思疏通はできるようだ。静菜はどきどきしながらお辞儀する。

「その、スーツ姿の男の人を見ませんでしたか?私のお父さ…父なんですが、はぐれてしまったみたいなんです」
「それはお気の毒に。ですがあなたの父上はここにはおりませんぞ」
「ああ、やっぱり…」
「彼に会いたいと?」
「も、もちろんです!」
「…ふむ」

アンブローシウスはしばしじっと静菜を見詰めた後、子供のように無邪気に破顔した。

「よろしい。あなたならまあ、大丈夫でしょう。イヴリンも懐いているようだ。資格は十分です」
「え?」
「お父上に会いたいのでしょう?さあ、お行きなさい。あなたならば、きっと世界を良い方向に変えられる。良い“導き手”になるでしょう」
「…はい?」

アンブローシウスが指を鳴らすと、唐突に、近くにあった扉の一つがまばゆい光を放った。音を立てて錠前と鎖が弾け飛び、ギイギイと軋みながら閉じられていた重厚な白木造りの扉が開いていく。

「どうかお元気で。イヴリンと、彼のもたらす力があなたの助けとなるでしょう。あなたなら使いこなせるはず」
「ちょ、ちょっと待って下さい!訳が分かんないんですけど!?一体何がどうなって…!」

開いた扉の隙間から、凄まじい突風が流れ込んでくる。こちらをグイグイ引き寄せる強い力に、静菜は簡単に足元をすくわれた。

「嘘、吸い込まれ…!…っ、きゃぁああっ!!?」
「きゅううっ、きゅー!」

細い悲鳴だけを残し、静菜とイヴリンは白木造りの扉の向こう、白い靄に覆われた世界へと吸い込まれていった。



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