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□月のしずく
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『これは遠い遠い昔の話。
夢のように儚く美しい話でございます。』


華やかな都の中心部から少し離れた広い土地に、身分相応の広い屋敷を構えるものがいた。そこに住むのは一組の夫婦。その家の主は名を高槻といい、かつてはその手腕で政を行っていたらしいが、今は引退し、北の方と二人静に暮らしていた。もう何年も人の口端にあがらなかった高篠の元大臣。しかし高篠の屋敷に出入りする童が興味深い話を持ってきた。
それというのは、高篠の屋敷にたいそう美しい姫がいるというものだった。夫婦には子どもはいなかったはずなので、たちまちその噂は広まった。しかもたいそう美しい姫、ということで公達たちも興味深そうに口にした。

「誰か見た者はいないのか?」
「下請けのものがちらりと見たらしいが、すぐに奥に隠れてしまったそうだ」
「しかし、高篠殿のところに姫君がいたとは初耳だ」

高篠の現役時代を知るものも首をかしげた。彼らが知る限り、高槻に子どもが出来たという話は聞いたことがなかった。仮に引退した後に子どもが出来ていたとしても、妙齢までには程遠いはずだった。

「まぁいいじゃないですか。私は今日垣間見に行ってきますよ」
「抜け駆けをする気か?」
「失敬な。美しい姫と聞いてたずねずにいられないだけです」


高篠の屋敷は昼間といえども、庭にある竹林のおかげで涼やかな風が入ってくる。
簀子で穏やかな風にあたっているのはたっぷりとした緑の黒髪をたくわえる妙齢の姫であった。

「月希」

振り向くと高槻の北の方_綾が碁盤を持って呼んでいた。

「退屈だったら、相手をしてくれませんか?」
「もちろん。今日は囲碁ですか?」

裾を翻し、綾とは反対側に座る。石は黒。先番だ
慣れた所作で石を持ち、盤に打つ。

「月希、市井の噂を知っていますか?」
「噂?なんですか?」
「貴方のことですよ」
「私?」
「貴方の存在を知った若者が、たいそう美しい姫だと言ったそうで。しかも、殿の一の姫ときたら、噂にならないはずがありませんものね」
「それは……ご迷惑をおかけします。どうりで、最近周りが騒がしいと思っていました」
「あらあら、やはり垣間見を試みる方々がいらっしゃったのですね」
「竹林に阻まれていたようですが」

と、格子から青々と茂っている庭の竹林を見る。

「そこまで見越して殿は竹林をいれたわけではなかったはずですが」

綾は面白そうに笑う。石を打ち、月希の顔を見つめる。

「こんなに美しいのだから、もっと自慢したいくらいです」
「………」

月希は複雑そうな顔をして石を打った。
結局、垣間見に行った公達は竹林や高槻に阻まれ、月希を見ることは出来なかった。誰一人として姫を垣間見れたものはおらず、公達たちは皆、屋敷に出入りする者たちが姫の様子の噂を聞くたびに恋い慕い、この姫を得たい、妻にしたいと、思い悩んだ。

「最近は一層男どもがよってくるようになったな」

朝餉の席で、昨夜も男を追い返した高槻は少し憤慨したように言い捨てた。身分も金もほどほどにある彼は娘を入内させようという気はなく、月希に任せようと思っているらしい。月希が望まない以上、垣間見を妨げるのは当然だと言い張る。

「隠していてもこの子の美しさは隠し切れないようですね。あちらこちらで噂を聞きます。なんでも、竹林の奥に隠れていらっしゃるから、なよ竹の姫だと呼ばれているそうですよ」
「なよ竹……そんなにしとやかではありませんが」
「文も、大量に来ていると聞いたが」
「ああ…はい。まぁ……」

垣間見が叶わなかったものの、どうしても会いたいだとか、求婚を求める文が月希のもとに届くようになった。その数は一日で数えたくなくなるほどのもので、もう三日目にして月希は根を上げている。

「返歌はしているのか?」
「していません。興味もないし…」
「そうか」
「殿も月希も結婚する気がないのは結構ですが、私として月希の才能を披露できなくて残念です。あれほど見事な歌や手を見れば、さらに貴方に求婚を求める者は増えることでしょうに。せっかく私が教えましたのに」

綾はかつて宮中に仕えたこともあったらしく、文句のない教養を月希に教えてくれた。教鞭がよく、ともともと筋がよかったので、すぐに月希はどこに出しても恥ずかしくない娘になった。しかし、その才を一切披露する場がないのが少し悲しく思うのであった。

「まぁたしかに、月希の才能は認める」
「本当ですか?」
「ああ。見事な手だ」

高槻に褒められ、月希は嬉しそうに頬を染める。
相好を崩していた高槻だが、不意に苦虫を噛み潰したような表情になる。

「月希、不本意な報せがある」
「はい」
「かつての私のツテを頼ってきたものがいる」

高槻が懐から取り出したのは五通の文。当然、話の流れからどういう内容かはおおよそ見当がつく。

「………それは、お断りしても支障はありませんか?」
「私のことは気にしなくていい。が、相手は相当身分が高く…安直に断ることは難しいだろう」
「……」

文を受け取り、月希は渋い顔をする。常々、この世界の身分というものは邪魔で仕方がないと思っていた月希だったが、今本当に邪魔だと思う。

「…ならば、無理難題を押し付け、諦めていただくというのはどうでしょうか」
「なるほど。お前の好きにしたらいいだろう。必要なものは用意させよう」
「ありがとうございます」

なにもいわずに月希の意思を尊重してくれる高槻を月希は本当に心から慕っていた。好きにさせてもらいながらも、示唆もちゃんとしてくれる。そんな高槻に月希は深く頭を下げた。

「では…お伝え願えますか」
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