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□夏生まれの烏
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咲は夏生まれの女の子です。夏生まれらしい女の子です。明るく陽気で、喜怒哀楽の激しいところのある子です。
「さっき泣いた何とかがもう笑ったって、よくおじいちゃんが言ってた」
足の爪を切りながら咲が言います。
「何だっけ?さっき泣いた……」
「烏だね」
「ああ、それそれ」
咲のお祖父さんは咲が中学校に上がってすぐに亡くなっています。咲には父母がなく、母方の祖父母に育てられていたので、それからはお祖母さんと二人暮らしになったそうです。父方の親戚は誰一人知らないと咲は何でもなさそうに以前話してくれました。
お祖父さんの言う通り、咲は僕と喧嘩をして泣いていたと思ったらもう泣き止んでテレビを見て笑っているような女の子です。喧嘩の程度がさほどでもないということや、今まで幾度となくした喧嘩のうち全て僕がすぐに折れて謝ってきたことも、関係しているかも知れません。
咲の激しい喜怒哀楽のうち、怒りと哀しみが僕には耐えられないのです。ありがたいことに、咲と知り合ってから、僕のプレゼントしたヘアピンをなくしたこと以上の哀しみを咲は見せていません。しかし怒りはしょっちゅうです。例えば昨日は、僕が咲からスマートフォンに送られたメッセージに気が付かず、帰りにスーパーで牛乳を買ってこなかったことで咲は怒りました。僕はスマートフォンのバイブレーションが苦手で殆ど常にサイレントモードにしているために気が付かなかったのですが、
「どうして逐一スマホを確認しないのっ!?」
という咲の叫びに被さるくらいの勢いで謝りました。帰宅して十秒で始まり三分で終わった喧嘩でした。こう書くと咲が一方的に怒っただけで喧嘩ではないようですが、僕も
「スマホはサイレントにしてるから重要なことはガラケーに連絡してって言ってるじゃないか」
とごく穏やかなつもりの口調で反駁したので、これは喧嘩なのです。夕飯にオムライスを作るのに必要な少量の牛乳を買ってきてもらうことは、咲にとっては緊急連絡用とも言えるガラケーに連絡するほどのことではなかったようです。
「烏、烏と言えば、何か他にもおじいちゃんがよくわたしに言ってたことがあった気がする」
「どんなこと?」
「うーん、覚えてないや。褒め言葉だったと思うけど」
何だったかなあ、と咲は揃えた爪に今度はやすりをかけながら言います。祖父の言葉を思い出そうとする気はないらしく、烏と一緒に帰りましょ、と夕焼け小焼けの終わりの部分を気分良さげに歌っています。
僕は咲のために紅茶を淹れながら、何とはなしに咲のうなじを眺めていました。適当にまとめ上げられた髪から、一筋うなじにかかっています。
「……濡烏」
「え?」
「ああ、いや、濡烏って色の名前。咲の髪を見てたらふと思い出して」
ダイニングから、僕のいるキッチンを振り返る咲はその大きな瞳を余計に大きく開いていました。
「どうしたの、咲」
「それだ。咲の髪の毛は濡烏だっておじいちゃんが言ってたんだ!」
にっこり笑った咲は、思い出せてすっきりしたと言って爪切りとやすりをポーチにしまいました。別に思い出そうとしていた訳ではないのに、隆信ありがとうと言うので、照れてしまいます。
「さすが文学士は違うわ!で、濡烏ってどういう意味?」
「綺麗な黒髪を指す言葉だよ。髪が綺麗だねって、お祖父さんは褒めてたんだよ」
「ふうん」
咲の髪は確かに烏の濡れ羽色という言葉がぴったりな美しい黒髪でした。出会った頃はまだ高校生でしたし、咲はそれから一度も髪を染めていないので、彼女が生まれ持った色です。
「おじいちゃん、しょっちゅう烏、烏って言うから、烏が好きなのかと思ってた」
そう言って咲は自分の勘違いにけらけらと笑い声を立てました。きっちり三分蒸らした紅茶の揺れるティーカップとマドレーヌを盆に乗せてダイニングに行く僕も笑いました。そして、咲がこの、僕もまだ食べていない限定品のマドレーヌと紅茶を美味しいと言って大いなる喜と楽を見せてくれるように願うのです。

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