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□月の観覧車
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制服が、夏服に完全に移行した日に、わたしは彼女がリストカッターであることを、知りました。わたしの通っていた学校の制服は、夏に着られる制服が三種類あって、半袖のセーラー服、薄い生地で長袖の合服のセーラー服、それから半袖で開襟の盛夏服。この年は記録的な猛暑で、まだ真夏でもないのに盛夏服を着ている人もいたくらいで、六月の衣替えの時期が来た途端に、殆どの人が半袖を着ていたのです。そんな中、彼女は一人、紺色から白へ変わっただけの長袖を着ていました。初めは、日焼けを気にしてでもいるのかな、と思っていました。その理由で暑さに耐えながら長袖を着る人も中にはいたからです。彼女もその一人なのだろう、としか思いませんでした。殊に、彼女は抜けるように色が白く、日焼けをすると痛くなる体質だったりするのかも知れない、などと勝手に考えていました。
わたしは、猛勉強の末、ある中高一貫の女子校へ入学しました。勉強の成果か、入試の成績が一位の人から成績順に三十二人が所属することになる、特進クラスへも入れたのです。地域でも名の知れた進学校でしたから、親も大いに喜びました。少なくとも、全受験者のうち、三十二番以内に入れたのですから、本当に嬉しかったのです。因みに、入学式で新入生代表の挨拶をした人が入試成績一位の人だ、というまことしやかな噂があり、そこで代表を務めたのが、彼女、愛宕ゆかりでした。入学式の日、壇上で挨拶を述べた彼女は、遠目から見ても分かる美少女でした。美少女で、頭も良いなんて、漫画みたいだと、思ったのをよく覚えています。本当に、漫画から抜け出てきたような人でした。
 さて、夏服へ衣替えした六月の半ばのことです。まだ、クラスにも部活にも、そこまで仲良しな子はおらず、でも大抵の人とは気軽に喋れる、そんな位置にいたわたしは、どちらかといえば明るく活発な方なのでしょう。対して彼女は、見た目の通り大人しく、儚げな人で、あまり人付き合いをしないようでした。クラスの中でも浮いている感じはしなくて、空気に溶け込んでいるような、存在感が希薄な人でした。そんな彼女とわたしは、同じ文芸部に所属していました。部では、作品を出すことは強制されておらず、出したい人が出して、それをまとめて定期的に部誌を発刊したり、文芸系コンクールへ参加したり、といった具合で、緩やかな雰囲気でした。わたしが文芸部を選んだ理由は、読書が好きで、厳しい部活動は性に合わなさそうだったからです。文章創作などした試しがなく、専ら他の部員の書いたものを読むばかりでした。しかし、彼女は、とても熱心に作品を作っていました。熱心、という言葉は、体温の低そうな、汗をかかない、物静かな彼女には似合わない言葉なのですが、同級生の誰よりも、先輩よりも、熱心だったと思います。彼女が書くのは詩ばかりでした。小説、随筆にはあまり手を出さなかったようです。一篇だけ、一言一句覚えている彼女の詩があります。

観覧車が まはる
わたしひとりを のけものにして
わたしは観覧車に乗ることができない
切符を なくしてしまったのだ
観覧車は 無情に まはり出す
観覧車が まはる
わたしひとりが それをみている

観覧車のなかに きっととじこめられている
わたしたちの 自由

そして、六月の半ばのある日、わたしは文芸部の部室で彼女と、たまたま二人きりになりました。その日は活動日ではなかったので、他の部員はいませんでした。わたしは、忘れ物を取りに、部室へ赴きました。てっきり部室は閉まっているものと思い、職員室へ鍵を借りに行ったら、既に貸し出されていたので、おや、と思いました。まあ、誰かしらが何かしらしているのだろう、と思って、部室棟二階、手前から三番目の部屋――文芸部室――のドアをノックも忘れて遠慮なく開けました。ドアはガラスなどははめ込まれておらず、廊下からは全く中の様子が伺えない造りになっていました。だから、彼女も気が緩んだのでしょうか。ドアを開けたら、すぐ目の前の机に向かう彼女がいました。長袖を捲り上げ、包帯を、腕に巻いているところでした。突然開いたドアに彼女は大変驚いたようで、栗色の大きな瞳をこれでもか、というほど見開き、唇も薄く開いて、こちらを凝視していました。わたしの視線は、彼女とはかち合いませんでした。わたしが見ていたのは、どう見ても異様な、その包帯と細い腕だったからです。包帯は、腕、というより手首に、巻かれていました。半分解けたその下には、血の滲んだガーゼが貼られていました。わたしはその異様な光景に、言葉を発せずにいました。ただ、突っ立っていました。先に我に帰ったのは、愛宕さんでした。
「……あ、の……渡部、さん」
震える声で、わたしの名前を呼ぶ彼女にわたしもはっとし、何度か瞬きをして、何とか状況を整理しようと考えました。文芸部室に一人、愛宕さんがいて、手首には傷があって、その手当をしていた、と単純なこのことを漸く理解しました。
わたしはドアを開けた勢いそのまま入口に突っ立ていて、中に入ることも、出ていくことも出来ずにいました。名前を呼ばれたけれど、なんと返答すれば良いやら、分かりかねました。取り敢えず、当たり障りのないことを、言おうと思いました。
「手首、どうしたの? 血がすごいけど、どこかで……」
 言いかけて、ふと、わたしの脳裏を過るものがありました。世の中には、自分で自分を傷つけることを趣味のようにしている人がいて、特に好まれるのが手首への傷だということを、わたしは聞いたことがありました。もしかして、と思ってしまったのです。不自然に途切れた言葉に、彼女も、わたしの思考を読み取ったようでした。
ずっとわたしに注がれていた視線がふ、と下を向き、入っていいよ、と小さな声がして、わたしは滑り込むように部室へ入り、慎重にドアを閉めました。部室には、普通の机と普通の椅子が向かい合わせに六組置いてあり、彼女はドアに一番近い、向かって左側の椅子に座っていました。彼女の視線が、ここに座れと示しているような気がしてならず、わたしはそっと彼女の向かいに腰を下ろしました。彼女はまた、わたしにその栗色の、夢見るような視線を向けました。そこにはどこか哀しみが揺蕩っているように、そのときわたしには思えました。どきどきと、痛いくらいに心臓が鳴りました。
「ごめんなさい、いやなもの、見せて、しまった」
 不意に彼女が口を開きました。別に、いやなもの、を見たと思ってはいなかったので、否定しようとしましたが、口の中がからからに渇いていて、うまく言葉が出ません。彼女もそれきりなにも言いません。わたしたちは視線を絡め合わせたまま暫し沈黙を保ちました。
 それって、自分でやったの。わたしがそう訊ねるまで、一体どれだけの時間を要したやら、今はもう思い出せません。とても長かったような気もしますし、案外短かったかもしれません。とにかく、暫しの沈黙ののちわたしはそう訊ね、返ってきたのは肯定でした。
「ど、どうして、そんなことするの? 痛いじゃない」
「痛く、ないわ、痛くないの」
「そう、……ねえ、どうして?」
「…………」
 なぜ、自らに傷をつけるのか、わたしには想像もつきませんでしたし、彼女もなかなか、答えてくれませんでした。きっと、答えたくなかったのでしょうが、そのときのわたしはしつこく、何度も訊ねました。分からない、という返答が得られたのは、夕陽が差し込み始めた頃でした。
彼女は、分からない、と答えてのち、わたしが訊ねなくても自ら、その行為の説明をしてくれました。これは、英語で手首を意味するリスト(wrist)と、切るという意味のカット(cut)を合わせたリストカットと呼ばれる行為であり、これに限らず自分で自分を傷つける行為を総称して自傷行為と呼ぶ、その多くは精神疾患の症状の一つである、と淡々と、彼女の独特なゆっくりとした喋り方で、教えてくれました。リストカット、という言葉を初めて知ったわたしは、口の中で小さく、りすとかっとと唱えてみました。違和感のある響きでした。
そうしてわたしは彼女の秘密を知ったのです。もう、十年も前の、六月の話です。
彼女は彼女の説明通り、精神疾患を患っているそうでした。当時はまだ、今よりもずっと、精神疾患への偏見や風当たりは強かったと思います。それなのに、大して仲が良かったわけでもないわたしに、打ち明けてくれた彼女の真意は、今となっては分かりません。決定的なものを見られて、自棄になっていたのでしょうか。でも、彼女はそんな風に、自棄を起こすような、激しい感情の持ち主ではなかったように思います。わたしになにか、シンパシーのようなものや、特別ななにかを感じてくれたから、打ち明けてくれたのではないかと、わたしは思っています。自惚れでも、良いのです。
 彼女の抱える病の名前は「精神分裂症」でした。今では「統合失調症」という名称に変更されたようです。幻聴や幻覚がある、と言っていました。わたしには、あまりに非現実的すぎて、なかなか受け止められなかったのですが、かと言って放り出すのも道理に反すると思い、なんとか理解しようと試みました。ですが、精神疾患なんてわたしとは無縁の世界の話だと思っていた当時のわたしには、難しいことでした。
その日、とっぷりと日が暮れるまで、彼女の話を聞きました。彼女はとても、ゆっくりとした話し方をする人でした。彼女は、彼女の時は、人よりもゆっくりと、流れていたのかも知れないと、今になって思います。
 彼女は、剃刀を使ってリストカットをするのだと言いました。剃刀は、手に入りやすい刃物の中で一番勝手が良いのだと、言いました。眩暈がしました。わたしは、自傷を打ち明けられた人の多くがきっとそうであるように、彼女を止めようとしました。
「ねえ、そんなこと、やめましょうよ。万が一、命にかかわるようなことがあったら、どうするの」
と、そんな調子で説得を試みました。しかし彼女の夢見る栗色は色を変えることなく柔らかにこちらを見つめ返すのみでした。今になって漸く分かります。あの夢見る瞳は、人生というものを、生きるということを、諦めてしまった者のそれなのだと。生きる苦しみから逃れることを夢に見ているのだと。
「死んだら、死んだで、仕方ないって、思うの。わたし、別にね、……死ぬこと……怖く、ないの……」
彼女は、確かにそう言いました。今でも彼女の、キャラメルを溶かしたような甘い声色が耳元で響くようです。死ぬのが怖くない、そんな人間が存在することも、大きな衝撃でした。誰だって死は怖いものだと思い込んでいたのです、わたしだって死は恐怖でした。今だってそうです。だから、やっぱりどうしても彼女の考え、想い、は理解の範疇にありません。
わたしの拙い言葉では、彼女はこのあまりにも痛々しい行為をやめてくれないのだと悟り、わたしは、無性に悲しくなりました。別に救世主ぶるわけではないけれど、目の前の、クラスメイト、部活動の同期、を助けられない自分の無力さに、悲しくなりました。そして早々に、彼女にそれをやめるよう求めることは諦めました。彼女は、日が暮れて、帰らなければならなくなった時間に、最後に、このことは誰にも言わないで……と消え入りそうな声で言いました。ですので、あのことはずっと、わたしと彼女の二人きりの秘密でした。
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