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□煉獄 杏寿郎
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夏も終わり秋めいてきた季節の夜は、少し肌寒い。
太陽が役目を果たし、月がその後を担う。
たったそれだけで数度も下がる気温は、ショートパンツを履いているサキの素足を冷やしていく。
一度着替えてから着たら良かったかもしれないと悩みながらも、家とは正反対の場所に向かっているために引き返すことが出来なくなっていた。
しかし、スマホのボタンを押すと表示される時刻は17:48と、無情にも早めに着いてしまったことを示している。

思った以上に冷え込んできた為にふるりと震える身体を、思わず両手で抱き締めていると。

「長倉?」

鼓膜に響いた声は、サキが愛してやまないただ1人の声だった。
その声に振り返り、初めて見てしまう普段着の煉獄がそこに立っていて、頭の先から足の先まで視線を滑らせると恥ずかしさのあまりに両手で顔を覆ってしまう。

「煉獄先生、こんばんは…」
「ん?ああ、そうだな。こんばんは」
「どうしたんですか、デートですか?」

不意に口からついて出てしまった言葉にお互いが身体を強張らせる。

「…なに?」

煉獄が纏う空気が少し変わったことに敏感に感じ取ってしまう。
ただでさえ冷たくなった空気はサキの身体を冷えさせていくというのに、自分の一言で更にダメージを追加してしまったということにサァっと顔が青くなる。

違う、こんなことが言いたいんじゃなくて、頭の中をぐるぐると言い訳やら何やらが支配し始め、どうやったらこの気まずい空気を逃れられると必死に考えていく。
しかしながら、聞けるのは今しかない、最悪この関係が終わってしまったとしても短い間だけでも幸せだったと思えるようにしようと、意を決してサキは口を開いた。

「昨日、綺麗な人と歩いてたので。
本命がいるなら言ってくれれば良かったのに!」

驚きに目を見開いた煉獄は何も言葉を発しない。
黙ったまま私との関係を続けていくつもりだったのだろうか、いつか離れ辛くなってきたあたりで私をこっ酷く振るつもりだったのだろうか。
サキの頭の中はもうめちゃくちゃで、これ以上喋ってはダメだと思いながらも口が動くのを止められないでいた。
鼻の奥がツンとして、気が付けばボロボロと涙を溢している。

「私すごく悪い子じゃないですか。
本命がいて略奪しようとか思わないですよ、あはは」
「勝手に決めないでくれるか。
一緒に居たのはただの後輩だ、それ以上でもそれ以下でもない」
「あ、…へー、そうなんですね」

一歩ずつ近付いてくる煉獄から逃げるように、反射的に一歩ずつ歩幅は違えど下がっていく。

「そんなことで悩んでたのか。
気になるなら聞けばいいだろう」
「聞いて何を返してくれるんですか!」
「…」
「返ってきたことのないメッセージで、何を聞けって言うんですか!」

もう限界だったのかもしれない。
女とはどうして叫んで怒るのだろうと思った時があった。
それを今、身をもってサキは思い知っている。
我慢をするからだ、何も言えないまま過ごして。
それがある日バツンと何かが千切れて弾けてしまうからだ。

肩で大きく息をしながら、ついに言ってしまったと煩い心臓を沈めるように胸元に手を寄せる。
諦めるなら今しかない、きっとこの先どんなに望んでも煉獄からの気持ちなど貰えやしない。
言え、言ってしまえ。

「もう、諦めます…先生のこと」
「…言っている意味がわからない」
「分からなくていいです、私がワガママなだけなので」
「長倉、」

「普通の先生と生徒に戻りたい、です」

震えていただろうか。ちゃんと言葉は届いただろうか。
勇気を出して言ったのだから、聞こえなかったとか言われたら少し悲しいかもしれない。
昨日から泣いてばっかりだなぁ、楽しいことがあれば毎日笑って過ごしていたいのに。
恋さえしなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。


彼女から告げられた言葉は、意味など簡単に分かった。
そうさせてしまったのは紛れもなく己のせいなのだと、ここまで悩ませて、泣かせて。
それでも尚、俺の気持ちは揺らぐことなどない。
君は知らないだろう、俺がどんな気持ちで君との関係を続けていたのかということを。

ボロボロと泣きながらも周りはきちんと見えているようで、足を一歩踏み出せば同じように一歩後退して俺から一定の距離を保っている。
だが今更になってこの場からすんなり帰してもらえると思っているというのなら、それは大きな間違いだということを教えてやらなければならない。
君が何も言わなかったように、俺も言えないことなどたくさんある。

下がられてしまうなどお構いなしにスタスタと徐々に距離を詰めれば、ここまで来ると思わなかったのだろう。
ついに背中を見せて走り去ろうとするところを、強く踏み込んで走り、腕を掴み取った。

「こっちを向いてくれないか」
「…」
「ならそのままでいいから、聞いてくれ」

掴まれている腕が少し痛い。
痛みとともに熱が流れ込んでくるような感覚もある。
衝撃で止まる涙、熱を帯びる頬、大好きな人の声が響く鼓膜。
夢なのではないだろうか。いっそ夢であってほしい。
せっかく諦めようと思ったのに、これでは、どうしたらいいのか分からなくなる。

「まず、君に謝らなければいけない。本当にすまない。
君の気持ちに胡座をかいてそこに居座り続けた」
「謝罪なんて、」

すまない、これ以上君に拒絶されてしまうと何をするか分からない。
そう思って言葉を紡ごうとした彼女の口を己の手で塞ぐ。
掌に当たる息の何と熱いことか。ドクドクと鳴る心臓と、避けていたものに触れることのできた喜びが己の浅ましい部分を刺激していく。

「俺は、君のことを愛している」

塞がれていた口元と掴まれていた腕が解放されたかと思えば、そのまま抱き締められる。
頭がパンクしそうだった。お付き合いをしてから初めて触れられるということが、手を繋ぐでも頭を撫でられるでもなく、こんなにもたくさんのことをされるだなんて夢にも思わなかった。

「あ、愛…?」
「ああ、愛している。君を誰の元にもやりたくない程に」
「なんっ、そんな!急に言われても、わかん、ないです」

肩に額を乗せればびくりと揺れる身体。
視線を横に向ければ短い毛先を超えた場所にある首筋に目がいってしまった。
落ち着け、今は手を出してはいけない。もう色々と遅い気はするが今まで我慢した全てを台無しにしてしまうのは拙い。
小さな深呼吸を繰り返していると、不意に彼女が口を開いた。

「…何も返してくれなかった、」
「臆病ですまない」
「触ることも、2人になることも、なかったくせに」
「君なら俺を想い続けてくれると勝手に思っていた。
教師と生徒である以上、手を出さないようにと距離を置くしかなかった」
「なんで、一言そうだと…言ってくれないんですか、」

泣きたくないのに。
泣かせたくないのに。

「悪い大人ですまないな、手放してやれそうにない」
「悪い大人なんですか…」
「ああ、卒業したら覚悟しておいてくれ」

今はこれで我慢してほしい、そう思いながらも己の欲求に今は嘘をつけない。
無理矢理彼女を己に振り向かせて顎を掴めば、泣き腫らした目元よりも更に赤くなる顔に笑みが溢れる。
期待しているところすまないが、まだそこにはできない。
けれど俺の気持ちだけは理解してくれ、そう願いを込めながらもう一度口元を手で塞ぎ、喉に深くキスをした。

顔を上げてふと周りを見渡せば、いつの間にかライトアップされているそこは多数のカップルのデートコースとなっていた。
周りでは仲睦まじく愛情を表現し合っている者たちもいて、見ているこちらが恥ずかしくなるほどである。

視線を戻し彼女の顔を見ると、羞恥心からか目が潤んでいた。
これ以上は流石に拙いと判断して、寒そうにしている彼女に己のコートを掛ける。
卒業してくれるまではこれが最後だと、向き合いながらもう一度抱きしめる。

「早く卒業してくれ」

そして早く、俺のものに。


2021.01.17


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