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□煉獄 杏寿郎
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初めて会ったのは、たまたま中等部の備品移動の手伝いに行った時だった。
力作業のためきっと邪魔になるし後々汗もかくことになるからと、明るいこの髪色を隠すようにタオルを巻いていた。

30分ほど経った時、お茶でも持ってくるべきだったと後悔しながら外の自販機まで足を運ぶと、何やら女生徒がその前でわたわたと忙しなく動いている。
どうかしたか、と声を掛けると勢いよく振り返ったその顔は真っ青で、両手にはペットボトルのお茶が2つ。
よく分からない状況にこてんと首を傾げると、慌てた様子で女生徒は口を開き始めた。

「あ、あの、こういう場合ってどうしたらいいんですか…」
「…?すまない、何がだ?」
「お茶を買いに来たんですけど…」
「ああ、今手に持っているな!」
「1つ買いたくてボタンを押したら2つ出てきちゃったんです…」

ほら、と言わんばかりに両手のお茶をこちら側に突き出し、本当に焦っているのか今にも泣き出しそうだ。
何がツボにハマったのか自分でも理解できなかったが、途端に込み上げてきた笑いを口元に手を寄せることで抑えようとするも、漏れてしまった笑い声に気付いた女生徒はぽかんとしたあと怒り始めてしまった。

「真剣に悩んでるのに…!」
「はは、すまない…っ、く…、面白くてな!」
「謝ってるのに態度が謝ってない…」

頬を膨らませてそっぽを向く姿に、女心とは難しいものだと思った。
徐に女生徒から片方のお茶をひったくり、空いた手に財布から取り出した小銭を一枚置く。
え、え?と意味を分かってもらえなかったようで、突き返されるそれをやんわりと断る。

「俺もお茶を買いに来た。そのお金はお茶一本分の値段の半分だ」
「…?」
「どうやらこの自販機は期間限定で半額で飲み物が買えるらしい。とてもお得だった!」

ぱきりと蓋を外し渇いた喉に流し込めば、水分を欲しがっていた身体が潤い始める。
ひと息つけたことに満足しそろそろ行くかと、一度女生徒を見やればあまりにも嬉しそうに微笑んでいるものだから、煉獄は何も言えないまま立ち尽くす。

形容し難いそれはどこか幻想的で、しかしすとんと胸に落ち、当たり前のように広がるその気持ちを煉獄は分からないでいた。
高鳴るようなもどかしいような。たまらなく己の胸に引き寄せて力の限りこの腕に閉じ込めてしまいたい衝動が駆け巡る。
そんな事など出来やしないが。

「2人だけの秘密だね」

お仕事頑張ってね、と手を振り駆け出していくその姿を呆然と見送る。
どこか苦しく感じる胸元を皺が寄ることも気にせずぎゅうと握りしめるも、当たり前だが何も解決はしない。

俺も仕事に戻るかとふと手の中のペットボトルは残り半分もないことに気付いた。
もう一本買うかと自販機に近付けば、足元に何かが落ちている。
見たことのある裏向けになっているそれを拾い上げてひっくり返せば、女生徒の写真と名前などが記載されていた。
どうやらあと1年足らずで高等部に上がるらしい。

「長倉、…サキ」

声に出した彼女の名前に気恥ずかしさを覚えながらも、小さな写真へと触れた自身の指先が驚くほど熱を帯びていく。
当初の目的も頭から抜け落ちた煉獄は急いで落とし物として中等部の事務室まで足を運んだ。


時が進んだ翌年の春。
受け持っていた生徒がそれぞれの道へと進み、新たに道を探さんとする生徒たちが己の元へとやってくる。
しっかりと導いてやらねばなるまいと毎年度心に刻むことを忘れない。
そんな中で今年度は一味違い、そわそわとする心があるのもまた事実で、手にした新しい生徒名簿を何度目になるか分からないがもう一度確認する。

長倉サキ。
決して少なくはないであろう受け持つ生徒の中に、あの日の忘れられない女生徒の名前があった。
正していた背筋の緊張感をやんわりと解きながら、自身の座る椅子の背凭れにゆっくりとその身を預ければぎしりと音がなる。
目を離すことが出来ず、無意識にもそしてそれが当たり前であると言わんばかりに、あの日と同じように指先で彼女の名前を一撫でしていると己の手元に影がかかった。

「どうしたよ、煉獄」
「宇髄か!」

後ろから覗き見とは相変わらず趣味が悪い。
サッと名簿を裏返して机に叩きつけるように置けば、おー怖とわざとらしく肩を竦ませながら隣の椅子に腰かける。

何故見えないようにと隠してしまったのだろうか。
ふと疑問に思うも、解決はできそうにないので考えるのをやめた。

「まさかねぇ」
「む?」
「いーや、こっちの話だ」
「分からんな!」

手早く授業の準備を済ませ、先に失礼する!と足早に割り当てられた教室へと向かおうとした時に慌てて宇髄から呼び止められる。
振り向けば先程の生徒名簿を渡される。大事な物だというのに忘れてしまうところだった。
感謝の言葉を述べながら手元の資料などに挟むと、気になっていた宇髄からの視線に反応するべきか迷った煉獄はニコリと笑みだけを返しその場を去っていった。


自身の出入りしている社会科準備室の整理や掃除係というものを作ってみたのは、出来心だと言われればそれまでだった。
そこで適当に目に付いた黄色い少年と、長倉を勝手にペアにして1年間よろしく頼むと朗らかにそう言えば、2人がとても嫌そうな顔をしていたので面白かったということを今でも覚えている。

待ちに待った放課後、その場所に来たのが長倉1人だけだったのは予想外だった。
長倉の口から一人で来た理由について述べられるものの、何も頭に入ってこないのは急にうるさくなり出したこの心臓のせいにした。

なるべく優しくと努めて穏やかな口調で室内にあるものの説明、適当な置き場所の範囲などを教えると真面目な性格なのかメモを取っていく姿をチラリと見やる。
下向きに下がる睫毛がとても長く、高校生になったばかりだというのにとても綺麗だと思ってしまった。
初めて見たあの時と大して差はないのだろうと勝手に思っていた自分を恥じる。人の成長とは計り知れない。




「煉獄先生、好きです」
いつ頃からか長倉に好きだと言われるようになった。
その頃には自分の気持ちにも薄々気付いていた。俺もだ、とどんなに言いたかったか。
お互いの立場というものがこれ程までに憎らしいと思ったことはない。

俺は教師で君は生徒だ、等と尤もなことを心にも思っていない癖につらつらと口をついて出てくる嘘に吐き気がした。
いつか誤魔化すことも出来ずにこの手に閉じ込めてしまいそうになるのを恐れたために、笑顔だけで返すことも増えていく。
「私、煉獄先生が好きだよ」
「そうか」
「一緒にいれるこの時間がとても幸せ」
「…お前さ、分かってる?俺もいるんだけど?」
貴方しか見えてないとでも言うかのような黄色い少年がいてもお構いなしなそれに、煉獄は気持ちが高揚していくのを感じていた。
しかしそれと同時に、俺では踏み込むことのできない場所にこの2人はいるのだと思うと、言いようのない気持ちが支配していく。
「えっ」
「なに、どうしたの善逸」
「俺怖いから帰っていい?」
「すぐそうやってサボろうとする」
互いに名前で呼び合い、躊躇することなく触れ合える。
俺が彼女と同じ時間を同じ立場で過ごしていたら、彼らと同じように彼女と接することができたのだろうか。
帰り際に再度告げられた好きという言葉だけが、同じ場所に立てない自分を酷く安心させてくれた。


「なあ、煉獄よ。お前いつから許嫁がいるわけ?」
「そんなものはいないが」
「面白い噂が出回ってるもんだな」
煉獄には許嫁がいる。いつ頃から、そしてどこから出てきたのか分からないそんな噂などどうでもよく、少しでもしたら勝手に消えていくものだと思っていたそれは、未だ消えずにずっと生徒の間で回り続けていた。
「今はまだガキかもしれねーけど」
「…?」
「黙ってるといつか大変なことになんぞ」
「…よく分からないな」
「後悔してもしらねーからな」
昼飯を食べ終わり、音を立てて椅子から立ち上がりその場を後にする宇髄に何をとは聞かなかった。
おそらく己の気持ちはバレているし、誰のことを言っているのかもすぐに理解できたからだ。
最近少し様子がおかしいのは分かっていたものの、よそよそしくなった態度に何もしてやれない。
すぐにでも持ち直しまたいつものように元気になってくれるだろうと勝手に思っていたが、三年になってもそれ続き、段々とひどくなっていくのを感じた。
何の反応も示さない己に対し、飽きられてしまったのかと焦りではなく怒りを覚えるようになった。俺の気も知らずに、と。

本日の小テストを行った時、それが出てしまったことは認める。
生徒たちが問題を解いている間は何をするでもなく、教室中を少しばかりウロウロしていたものの特にすることもなく窓際の自身の机に腰掛け全体を見る。
ふと視界に入った長倉は既に終わらせてしまったのか窓の外をぼーっと見ていた。
こんな姿にも心がもやもやとして怒りに溢れていく。
よく合っていた視線も、無理やりこちらを見ないようにしているのを分かっていたからだ。
何故と思いながら視線を離せずにいると、長倉の表情が少し柔らかくなった。そして窓の外に向かって小さく手を振り、つられるように外を見ると竈門少年が彼女に向かって大きく手を振っていた。

きっと態度に出ていたのだろう。
合った視線を逸らされ、こちらに持ってこないテスト用紙、逃げるように出て行ったその背中。
ここに誰も居なければきっと引き留めてきつく詰めてしまっていただろう。
彼女は俺のものではないというのに。

今日の予定を確認した後、彼女と話をする為の時間を設けるために社会科準備室の鍵を荒くポケットにしまい込み教室へと向かった。

「長倉」

声を掛ければびくりと一瞬震えながらもこちらを映すその眼に酷く高揚感を覚える。

「煉獄、先生」
「帰るところすまないな!鍵を渡しておくので、社会科準備室の整理整頓を頼む!」

断られる前にとポケットから手早く鍵を取り出して差し出すも、受け取って貰えそうになかった為に下げられている手を掴み無理やり握らせた。
焦ったように鍵と煉獄を交互に見る彼女に微笑み、拒否などはさせないとその場を後にし急遽入った会議へと向かう。

思ったより長引いてしまった会議に早く終わらないかと思ったのは初めてだった。
普段から生徒に廊下は走らないようにと注意をしている手前、もしも生徒が残っていることを危惧し早歩きで社会科準備室へと向かう。
彼女は残っているだろうか。鍵だけ残して帰ってしまっていないだろうか。
そんなことが頭に過ぎるも彼女ならそのような真似はしないだろうという信頼が煉獄にはあった。

目的の場所へと辿り着いてドアを開けようとした時、小さな窓の向こうに彼女の姿が見え酷く安心してしまう。
机に腰を下ろし俯きながらスマホを覗く姿は、初めてここの作業を任せた時に見た表情より綺麗な顔をしていた。
柄にもなく小さな深呼吸を2〜3度繰り返し、ドアを開けて足を踏み入れる。

「綺麗になったな!ありがとう」
「いつものことなので」
「慣れたものだな、さすが…、」

見えてしまったものに言葉が出なくなった。
いつも通りのはずだったものは、小さな変化によって音もなく崩れていく。

「先生?」

意図が分かってしまった。何故このようなことをしたのか。
分かってしまったのに認めることはできないという気持ちから、あれは何だと問い詰める。
言っている意味が分からないと少し首を傾げられるも、少し考えてから気付いた後その変化について説明をしていく姿にとてつもない距離を感じた。

「長倉」

名前を呼ぶも目を合わせようとせず、ゆっくりと立ち上がり腰掛けていた所に鍵を置いて帰る準備を始めていく。
上手く言葉が出てこない。
どうやれば、どうすれば、彼女を引き留められるだろうか。
どこから間違えてしまったのか考えても分からず、もう一度名前を呼ぶも既に扉を開けた彼女は小さく己を呼んで振り返り、とても綺麗に微笑んでいる。

「さようなら、また明日ね」

告げられなかった好きという言葉。
遠ざかる足音。
はっきりと示された拒絶に、俺の身体は動いてはくれなかった。


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