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□櫻色ヒステリカ
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僅かに傾き、カタリ、と壺の中で揺らぐ音。
音からして、軽くて粒状に近い。
「何が入っているんですか?」
「桜湯の種……ですかね」
そう言って、壺の蓋を開け、匙を使って桃色の塊をすくいだす。
そしてそのまま、杯に溶かしてゆく。
「桜の花弁を塩と梅酢などに漬けていたものです。こうして、白湯の注いだ杯に溶かしていくんですよ。そうすると……」
一旦、手を止める猫屋敷。
「……綺麗ですね」
ふわりと広がる、微かな桜色。
湯の中で揺らぎつつ、だんだんと花が開き湯の上に浮かび上がった。
「これで、完成ですね。……社長?」
「こうやって……桜を楽しむ方法もあるんですね。花見くらいしか知らなかったので、新たに知れて何だか嬉しいです」
まじまじと杯を覗き込むいつき。
かつては、漆黒の革の眼帯に覆われていた右目も今は何も遮るものは無い。
両目を使って見ている様子は、まるで普通の高校生のようだ。
(……今までは、無知だった故に自分の立場が判らず恐怖に追われていましたね。分かってからは、理解したからこその恐怖に追われる日々。……春を愛でる余裕など、それは無かったでしょう)
妖精眼を持つ者の運命ではある。
それでも、せめて今だけは普通の高校生であって欲しいと思ってしまうのは、部下として上を労る気持ちだけではないことを自覚していた。
目を少しだけ離すようにして、いつきのことを眺める。
桜湯の淡い桃色が、いつきのやや大きめな黒瞳に反射するかのように映り込んでいた。
混ざり合うことがないぶん、そのコントラストは儚さを宿らせる。
……その儚さは穏やかな春の陽射しに、よく似合っていた。
そして自覚は、無意識のうちに口から溢れてゆく。
「綺麗、ですね」
「はい。……僕も」
そう思います、とは続けられなかった。
自分を見つめる瞳が、とても優しかったから。
そして……その瞳に滲んでいる熱の色を知っていたから。
(ずるい。そんな瞳じゃ、まるで……僕のこと)
好きみたいじゃないか。
聞こえないくらい、小さな呟き。
「ね、猫屋敷さん……桜湯、冷めちゃいますね」
胸に広がるさざ波を振り払うように、とりとめのない言葉を投げかける。
どうか、誤魔化されてほしい。
そう思いながらも、猫屋敷の瞳を逸らすことは出来なくて、息が詰まる。
「……社長」
いつもと同じように、呼びかけるその声さえ、瞳と同じ色を纏っているようで。
彼の灰色の髪が、陽射しを受けて鈍く光る。
「……はい」
命のが危険に晒されているわけではない。
でも、逃げ出したい。
なのに、逃げ出せない。
返事をする声が、震えた。
「今……何を思ってます?」
(そんな質問……答えられるわけ、ないじゃないですか)
「言えない、です」
「言えない、ですか?……言わない、ではなくて」
「……そんな言い方、ずるいです。猫屋敷さん」
戸惑ってそう告げた顔が、火照る。
この会話の意味は何だろう。
社長業も、2年が経つ。
お互いの腹を探り合うようなやり取りにも、だいぶ慣れた。
しかし、このやり取りは何かが違う気がする。
もっと、深くて単純な……。
「確かに……狡いかもしれませんね」
「え……?」
「……社長、ちょっと失礼します」
手に持っていた杯を地面に置き、片腕を引かれる。
桜湯の入った杯を覗くために、猫屋敷とはちょうど向かい合うような姿になっていた。
そんな姿から、片腕を引かれればどんな姿になるのか。
……単純明快。
抱きつくような形となる。
否、抱きしめられるような形となった。
彼の羽織越しに、僅かに聞こえてくる心臓の音が跳ねているのは気のせいか。
(えっ!?)
失礼します、とは言っていた。
とはいえ予想外の展開に、混乱を隠せないいつき。
「あの……猫屋敷、さん?」
「すみません。……本当は、伝える気など無かったのですが」
抱きしめる腕に、さらに力が入った。
肩に顔を埋められ、零れる吐息に全神経を持っていかれそうになる。
はらはらと散ってゆく桜さえ、もう見えていない。
視線の端に囚われるかのように見えているのは、彼の瞳と同じ灰色の髪と白装束。
「……貴方が、愛しい」
長い静寂の後、ぽつりと呟かれた言葉。
まさしく、それは愛の告白だった。