短編
□イゾウ成り代わり
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ハルタは、自分が宙に浮いていることも、このままだと怪我をしかねないことも、頭のどこかではわかっていた。
――このままだと駄目なことも、イゾウはこんなことをきっと望まないということも、自分の弱さも、全部全部、どこかではわかっていた。
けれど、駄目だった。そこから繋がる回路だけが切断されたように、わかっているのはわかるのに、体も頭も心も、何も動いてはくれないのだ。
ハルタと壁との距離がどんどん縮まり、近くなり、今にもぶつからんというところで、その間の空間が捻じ曲がるようにこじ開けるように、闇が滲む。
滲み出す闇が、少しずつ広がる。独特な気配を感じさせない、ただの影のような闇がぶわりぶわりとその面積を増し――その闇が晴れると、一人の、男。
間髪入れずに男の胸板に背中からぶつかったハルタを男が慌てたように受け止めてサッと部屋を見渡して。
それを正しく認識した男が衝撃と驚愕に目を見開いた。
その腕の中、ハルタはその表情を僅かに動かした。
凍ったような頭と心と体の中、唯一正常に働いていた頭の一部が、想定していた痛みも衝撃も来なかった事への驚きを表して慌ただしく動く。
それ以外の部分も、緩やかに、緩やかに、動き出す。
この部屋には、誰も、いなかったはずで、この見慣れた部屋には、自分のことを受け止めるような物は、何も、ないはずで。
何より、いつも感じていた、一番好きな、ついさっきまでと同じ、けれどそれより強い香りを、感じて。
ハルタを受け止めた男が、ゆるゆると腕の中の体に視線を移す。
見慣れたその体は、重さは、本当にその人なのかも疑わしいほどにやせ細り、驚くほどに軽い。
確かめるように、男が声を絞り出す。
「ハル、タ?」
その声に、ハルタの顔が、歪む。
幻でもいいと、夢でもいいと、ハルタがぼろぼろと涙を零した。
「―――イゾウ…っ!!!!」
………
俺の名前を呼びながら体ァ反転させて抱きついてきたハルタは、堰が切れたように泣きじゃくって叫んだ。
ハルタの叫びを、慟哭を、絶望を、揺れる船の上で、荒れる波を感じながら、誰よりもそばで聴いた。
聴いてるこっちの胸が締め付けられるような、酷い声だった。
ハルタが俺の名前を呼んで、俺に抱きついて、ほっそい体になっちまったコイツが酷い声で泣き叫ぶのを、俺はただ見て聴いてその痩せこけた体を抱いてやることしか出来なかった。
酷い、声だった。悲哀、後悔、絶望、全てを混ぜ合わせたような、本当に、酷い、声。
体だって骨と皮ぐらいしか残ってねェんじゃねェかって思うほど痩せちまってた。
涙ァ拭った時に見えた隈だって酷ェもんだった。
それ見て俺はやっと気付いた。気付けた。――そして、心底悔やんだ。
――俺は、選択を間違えた。
ハルタがこんなになっちまうなんて思わなかった。こんなにも自分を責めちまうなんて思ってもみなかった。……俺がこんなに想われてるなんて、思いもしなかったんだ。
「すまねェ、ハルタ」
胸の奥が詰まる。
随分と頼りなくなっている家族の体を抱き寄せて、何故だか俺まで涙が零れた。
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帰り道「main」
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