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□霧の街と彼女の居場所(中)
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「『のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。』」
 葉菜さんは、急にそんな言葉を言いだした。棒読みで、機械的に言っている。この言葉が好きではないらしい。
「なに、その言葉? 」
 そう僕は聞き返した。
 僕は藪川の診断を一五時に受けてから、病室にまっすぐ戻っていた。今日は水曜日だ。水曜日の夕方は民放で時代劇の再放送がやっている。夕飯まで雑誌を読んでいたいが、老人たちが休憩所に集結する時間だった。向岸もこの時間は何度か休憩所に来ていたから、僕としては居場所がない。無理に居座って、いちいち雑誌を読んでいられるほど神経も太くない。それくらい神経が太かったら、アルバイトの精神的ストレスで吐いたりはしなかったかもしれない。
 仕方なく戻った僕の病室で、最近地下の購買で買ったちょっといかがわしい雑誌をじっくり読んでみようという気を起こしていたが、先客がいた。
葉菜さんだった。
 僕は、なぜか少し残念な気持ちが湧いたがいちいち考えないことに決めた。そうして、こうして僕の部屋をこまめに訪ねてくれることに感謝しなくてはいけないという義務感のようなものが発生してきたのだ。
 僕は葉菜さんからまた焼いたケーキを受け取った。ケーキ屋で貰うような紙の箱に入っていた。僕が蓋を少し開けて中を覗き込むと、中には茶色い生地のスポンジがトローチみたいな輪型になっていた。
「バームクーヘンよ」
 と彼女は教えてくれた。僕はそれに感謝の言葉を述べて、とても一人では食べ飽きてしまうから、いっそ休憩所に置いておこうかと頭の片隅で考えていた。向岸やご老人方に配って回って、話すチャンスを作るのも良いかもしれない。結構、勇気がいるのだけれど。
 今日の葉菜さんは、茶色のダッフルコートを着込んで、下は膝丈の紺のフレアスカートを履いている。そこから、冬用の紺野タイツが伸びていて、足にはぺたんこの茶色の冬用ブーツが履かれている。首にはベージュをベースにしたチェックのマフラーを巻いて、後ろで縛っていた。

 僕は自分の果物ナイフを取り出して直径三〇センチちかいバームクーヘンをナイフで一部切り分けた。そして一つを紙皿に乗っけて、金属製のフォークを引出しから出して葉菜さんの前に出した。僕はもう片方を皿に取ると、手で掴んだままむしゃむしゃと噛付いた。
 口の中が異様にパサパサする。スポンジは口の中で、ボロッと崩れてそのまま唾液のほとんどを口から奪い去っていった。僕は水が飲みたくなって、ベッドわきに置かれた簡易冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、紙コップを出してきて葉菜さんに水を渡した。その後自分もコップごしにごくごくと一気に飲み干した。バームクーヘンはボロッと崩れて細かい粒になった後、喉の奥に流れて行った。
「うん、甘いね」
 素直な感想だった。
「そうね、甘いわね」
 葉菜さんはフォークでスポンジを小さく切り分けて、それを細かく口へ運んでいた。
 僕は「甘い」以外に何か言わねばならない気がして、頭でそれを考えていた。浮かんできた言葉は、「乾いている」「ぱさぱさしている」「弱い甘味だ」「口に入れるとボロッとする」などで、どうにも口に出すにははばかられるものばかりだ。僕はそれを一まとめにして、こう言った。
「おいしいね」
 そういうと、葉菜の口元がふっと緩んだ。
「そう。ありがとう」
 そう言って、彼女はもうそれ以上何も言わなかった。しばらく沈黙が流れた。
 僕はそこで、さっき藪川から聞いた話を葉菜にしようという気になった。何か特別な目的は無かったが、彼女なら何か鋭い意見を言ってくれるような気がしていたからだ。

 僕は、僕の担当医である藪川がうつ病だということを葉菜に言った。普段彼は非常に呑気そうであり、またつまらない冗談を言うのだから、とてもそんな神経の細いようには思われないことも話した。そして、あんな呑気な男も神経がやられるわけだから、ああいう人を見ていると自分の先行きまで不安になるようだと話した。
 葉菜はいつものように、眉一つ動かさないまま僕の話を真顔で聞いていた。そして僕が話し終えると、こんな言葉を話した。
「『のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。』」
 僕はその言葉を聞いて、しばらくきょとんとしていた。何か解答めいたことを彼女が言ってくれることを期待したが、彼女はこの話題に興味がないのかあまり話したがらない。僕は待ちくたびれて、彼女に聞いた。
「それって、どういう意味? 」
「呑気に見える人でも、心の中はそうでもないって、意味よ」
「……へえ」
 そんな言葉があったのか。誰だか知らないが、うまいこと言う奴がいるもんだな。
「なるほど。誰の言葉? 」
「さあ、ね」
 葉菜さんは本当に知らないし、その言葉に興味も無いらしい。
「じゃあ、なんで知ってるんだよ? 」
「うちの英文科の教師がたまに言ってるのよ」
「へえ。なんだかうまいな。てか、葉菜さんって、英文科なの? 」
 僕は、そういえば彼女の大学生活についてほとんど知らなかった。彼女が文系か理系なのか、何を専攻しているのか、さっぱり知らなかった。
「私は理学部よ。物理学を専攻してて、量子物理学専攻なの」
「じゃあ、なんで英文科の先生のこと、知ってるの? 」
「大学一年の頃に一般教養って、みんな文系理系問わずに受ける授業があるの。その時に英語と第二外国語、人文科学が理系の必修になってる。私たちのクラスを受け持った担任が、その言葉を言ってたの」
「へえ」
 僕は大学に行ったことが無いし、実は大学からきている資料も放置して目を通していない。なんだか三月に入ってからそれを開けても大丈夫な気持ちになって、開ける気にならない。
「でも、さすが大学教授だよなー。なんか、響きがかっこいい」
 簡単なことを難しい表現で言うところが、僕のイメージする学者なのだ。
「あいつ自身は、全然かっこよくないけどね。小男で鼻の下にちょび髭生やしてて。頑固者で、生徒の欠席連絡に証明書類提出を命じたり、図書館で私語している生徒を外に呼び出して叱りつけたり。うちの大学の名物先生なの。昔はあんなでもなかったらしいんだけど、三年くらい前にロンドンに留学に行ってて、神経衰弱になったらしいのよ」
「ああ、それからおかしくなっちゃったの? 」
「らしいわね。ただ、たまに妙な言葉をボソッと言って、それがなんとなく耳に残るのよ。君の話聞いてたら、そう思ったってだけ。
ああ、私たち、何の話してたっけ? 」
「藪川先生が、ノイローゼだったいう話だよ」
「ああ、そうそう。つまりね、藪川先生って、医師でしょ。上級のインテリよ? 呑気に見えたって、呑気でいられない部分があると思うわ。頭の良い人って、けっこう悲劇的かもね。この前だって、荒巻くん、そういう人に手こずってたし」
「ああ、楓さんね」
 僕はそういうと、なぜか少し可笑しいような気がした。僕は、楓さんについては悲劇とは思えないでいた。
「大人は大人で、胸に抱え込んだり畳み込んだりしたものがいっぱいあるのよ」
 葉菜さんはそう言った。
「へえ……。今の言葉、なんか葉菜さんらしくないな」
 僕が考えている葉菜は、生半可な同情の言葉なんて言わない人だった。常に冷静で、相手にとって都合の悪いことでもきっぱりと言い切ってしまう。
「え? 私らしくない? 」
 自分の自分らしさなんて知らないわよ、と葉菜さんは言った。
「まあ、私の両親がそうだっったからね。お父さん、優(ゆう)の病気が悪化にしてから全然仕事の愚痴言わなくなったの。言っちゃだめだ、って思ってたみたい。息子がこんなつらいんだからって。
 でも、アメリカの金融破たん以降、仕事が大変なことなんて見てて丸わかりだったわ。帰ったってろくに話さない。私やお母さんとろくに話さないまま自分の部屋に入っちゃって。あの時のあの人見てたら、なんだか哀れな気持ちになったわ。大人って、めんどくさいんだなーって」
「そっか……。葉菜さんのお父さんも大変だったね」
 僕は彼女の父親にいささか同情してしまった。僕もアルバイトでため込んで、もどしたことがあったからだ。白織のお父さんは、自分の息子が全身管だらけになったり、投薬されたりするのをずっと見てきたわけだ。僕だって、そんな息子見てたら愚痴を言うのにも罪の意識が芽生えてきそうだ。
「だからかな。楓さんを説得するよう君に言ってきたのも、半分は自分の思い入れのせいだったのかもしれない。
でもあの人だって、正直に本音を吐いてしまったら、なんてことなかったでしょ? 」
「まあ……。たしかに」
 僕は彼女の言葉にうなづきながら、なんだか結果論ではないかと思った。
「私んとこのお父さんもそうだったからね。ただ、吐かせるまでが大変だったけど」
 葉菜のその言葉は、なんだか疲れたような濁りがあった。
「なんか葉菜さんってすごいな。なんか、こう、人を見ぬくと言うか言い当てると言うか……」
 僕の少ない語彙力では彼女のことを適切に表現する言葉が見当たらなかった。葉菜さんは僕の褒め言葉に興味がないみたいで、話をまとめてしまった。
「まあ、そういうことなの」
「は、はあ」
 僕と葉菜さんはそうして少し黙っていた。僕は、これ以上さっきの話題に触れることは彼女の振る舞いからしてタブーな気がしていた。
僕はもう一つの話をしようと考えた。葉菜からアドバイスを貰いたい気持ちと、自分の言い分を正当化したい気持ち両方があった。
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