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□霧の街と彼女の居場所(下)
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僕はこの岩瀬漁港と言う場所に初めて来た。
 僕と向う岸はバスで都市にまで行った。そしてそこのちょっと外れから市内電車という奴に乗った。もっとも市内電車にもライトレールとか環状線とか、よく分からないけどいろいろな種類があるらしい。僕と向う岸はライトレールという奴に乗った。
 向う岸が教えてくれた内容では、市街地の施設や大学など人の出入りの激しい場所へ人を運ぶのが一般の市内電車である。ライトレールは人を観光施設や市役所などに運ぶのではなく、住宅地に運ぶものである。だから市内電車の停車地は都市の主要施設であることが多いが、ライトレールの停車地はそれぞれの街のプラットホームである。
 僕は彼女の説明が正しいのかよく分からなかった。彼女はもともとここら辺の街に住んでいたから、市電とライトレールそれぞれの活動の傾向としては的を射ているのかもしれない。少なくともライトレールは始発こそ駅裏だったが、すぐに密集した住宅街の間に敷かれた狭いレールを静かに走って行った。
 僕と向う岸は一六時過ぎに病院を出た。街のはずれのステーションに辿り着いた時すでに一七時を少し回っていた。ライトレールは会社帰りのサラリーマンからスーパー帰りの主婦、保育園帰りの児童と母親、七〇過ぎのおばあさん、大学帰りらしきカジュアルな服の若い男性まで様々な人でごった返していた。
 電車に乗る前は寒くて、僕は羽織ってきた紺色のダッフルコートのポケットに手を突っ込んだままだった。向う岸も茶色いダッフルコートを着て、下はちょっとだぼだぼなスウェットのズボンを履いていた。首には白くて先っぽに綿毛の塊のようなものがついたふわふわしたマフラーを巻いていた。彼女のファッションセンスが良いのか悪いのか僕には良く分からない。ただ彼女が見た目より着心地の良さを優先させていることはよく分かった。
 電車の中は人で混雑していたから外程寒くは無かったが、僕も向う岸も服のボタンを外したりマフラーを解いたりはしなかった。電車になだれ込んでいく人ごみに押されながら、電車の隅で僕は吊り革を掴んで、向う岸は手すりにつかまって黙って外の街の景色を眺めていた。
 外は夕日のオレンジの光が住宅の白色や灰色の壁によく映っていた。時々住宅街の合間から学校や幼稚園が見えた。小学校のグラウンドではゼッケンを付けた生徒たちがサッカーボールを追いかけまわしている。クラブ活動だろうか? 僕はその時、そういえば今日が金曜日であったことを思い出した。僕が小学生や中学生だった頃は、多少帰宅が遅れても次の日に影響のない金曜日は決まってクラブ活動の日だった。
僕は小学校から中学校にかけて陸上で中距離を走っていた。加速力はすこぶるなくて、相手に勝つときは決まって終盤で根性を出して相手を追い抜くときだった。僕は決して優秀な陸上選手ではなかったけれど、面白がって毎週金曜日のクラブ活動には参加したものだ。
 僕はふと、横にいる向う岸を見た。彼女の顔は、別の生き物でも見るような顔であった。彼女は中学に入ってからは、ほとんど学校に行けていないはずだ。運動も苦手だったと言うから、クラブ活動には全く縁のない人生を送ってきたのだろう。でも僕は彼女の顔が、欲しいものが目の前にあるのにやせ我慢している子供のように見えて仕方なかった。彼女はずっとクラブ活動をする学生たちを凝視して、少し歯を食いしばっていた。
 始発の駅で大量の人間を乗せたライトレールは静かに閑静な停車場に止まっていった。その度に五、六人の人が抜けた。そろそろ一八時が近くなったころには電車内には僕とおばあさん、小学生が二人残っていただけだった。
 僕らを乗せたライトレールは、住宅街を抜けて海が見える停車場で止まった。車掌が、
「ご乗車ありがとうございました」
と機械的に言った。僕と向う岸は小銭を料金箱に入れると、外に出た。
 外に出ると冷気が肌を撫でた。日が落ちればもっと寒くなるに違いない。海にはそう長居出来ないだろうと思った。着込んだダッフルコートの外から、冷気が忍び寄ってくる気配がする。冷たい空気に、潮の香りが混じってきている。生き物の腐った匂いだ。病院の消毒液の匂いと正反対の香りだ。
 僕は隣に立つ向う岸を見た。彼女は慣れない満員列車に四〇分近く揺られたことで少し疲れているみたいだった。彼女は、首に巻いたマフラーをちょっと上に挙げながら言った。
「今夜は、よく眠れそうだね」
「そうだな。ちょっと、人ごみ慣れなかったよな」
「おにいちゃん、ちょっと、あっち行かない? 」
「あっち? 何かあるのか? 」
「うん……。結構前だけど、ここに来たことあるんだ。」
「へえ。いつぐらいだ? 」
「んー、小学校五年生? お父さんに連れられて、釣りにきたんだ」
「釣りか。いいな。何釣ったんだ? 」
「タコ」
「タコ? 」
 僕は目をぱちくりさせた。彼女の発言にかなり驚いた。
「タコって、ここらへんで釣れるのか? 親子で行くんなら、てっきりアジとかイワシだと思ったよ」
「わたしもそういうのだと思ったけど、お父さんが、タコの方が美味いんだって」
「お前のお父さん、変わってるんだな」
「さあ。おにいちゃんよりは変わってないんじゃない? 」
 彼女は僕を皮肉るようにそう言ってきた。僕のどこがどう変わっているのか、問い詰めたい気分になったが、そう言う議論は時間ばかり食って解決しない。
「うるせえな。それで、釣れたのか? 」
「ううん。仕方ないから、近くの魚屋でタコのぶつ切りを買って帰ったなー」
「……そっか、そりゃいい思い出だな」
 僕は、彼女への皮肉のつもりでそう言った。彼女は追求してこなかった。


 降りた場所の前は入り江の奥になっていて、停車場から左手には外海に向けてテトラポットを敷き詰めた堤防が突き出している。その先には灯台が立っている。夜がもうちょっと更けたら、明かりが灯るのだろうか? 
僕らは灯台と反対の方向に進んだ。灯台の反対側には青い屋根の工場らしき建物が立っている。ただし扉が無くって、中が明け透けになっている。漁船で積んできた魚を仕分けて、セリにかけたり捌いたりする市場だった。
 僕と向う岸は、入り江の途中に無人の漁船が横付けされて並んでいるのを見ながら、市場の建物の方へ歩いて行った。僕らが歩く入り江沿いの道には、破れて使い物にならない定置網が丸められて小さな山みたくなっていたり、丸型の黄色い浮が数珠みたいに繋げられて放置されていたりした。一定距離ごとに、船をつなぐための金属ブロックが地上に突き出しいている。僕と向う岸はそれらを見ながら、市場のところまで言った。
 市場の中はもう仕事が終わったらしく、誰もいない。魚の仕分け作業もすべて終了したらしく、魚の血の生臭い匂いが残っているだけだった。中はがらんどうで、差してくる夕日が建物内部の正面だけを照らしていた。しかしそれ以外の部分は真っ暗で何も見えない。
夜がさらに更けたら、ここに来る気持ちなどつゆほども起こらないだろう。日中に活気がある場所ほど、夜の閑散さが対称的で怪しい気持ちにさせられる。小学校や病院のロビーが良い例だが、ここにもその例があるとは知らなかった。
 建物の入口の方から、僕と向う岸は水平線に浮かぶ夕日を見た。ここからだと、灯台が正面の左の方に見える。その灯台の先から堤防が途切れて、外の海が見えた。外の海からオレンジ色の夕日がきれいに見える。入り江の海は波がほとんどないため、夕日の色が水面に映ってぴかぴかとしている。金曜日だからだろうか、入り江に入ってくるボートもない。ただ外の海から来る潮風が顔にもろに当たるため、僕はポケットから手が出せなかった。
 堤防の波打ち際に立つと、魚を市場へ運び込むためだろうか、血痕がコンクリートにあちこち染みついている。そして明らかに食用ではないコンブや海藻の屑が落ちている。僕は海際からちょっと下をのぞいてみた。海底が透けて見える。漁船からこぼれたであろう、アジや銀色に光る魚たちが海底に沈んでいた。そしてその横には、骨の折れたビニール傘が打ち捨てられていた。
 僕は堤防の海際に立ってしばらく夕日を眺めていた。それは、久しぶりに見る海上の夕日がとても美しいのと、潮風のせいで体温が奪われそうになるため無駄に動きたくないのと、二つの理由からだった。
 ちらりと横の向う岸を見た。彼女もピンクの毛糸の手袋をした腕を、ポケットに突っこんで寒そうにしていた。彼女の肩のちょっと下まである髪が、潮風で乱れて顔のあちこちに張り付いている。彼女自身も寒そうにちょっと目を細めていた。
 ―ここじゃ、ろくに話もできないな。
 僕はそう考えた。彼女はわざわざここに来て、何かを伝えたいようだった。病院から出る前から口数が少ないのを見ると、勇気がいることを僕に打ち明けようとしてくれている。しかしこう寒ければ、大切な話なのに気が散ってしまう。
「あのね、おにいちゃんは孤独を感じたことはある? 」
「へ? 
うーん、あんまりそういうこと考えたことないけど、病院に友達はいるし、担当の先生だって良くしてくれてるから、別に孤独じゃないな」
 僕はそう言いながら、学校の友達のことが一切口に出てこない自分がかわいそうになってきた。いいじゃないか、学校の友だちなんて。いてもいなくても。
 彼女はそれを聞いて、「ふうん」と小さく反応した。
 急に潮風が弱くなってきた。風が小さくなり、肌を軽く撫でる程度になった。
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