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□ゾンビと少女と預金通帳(上)
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ホットのおかげで「リーダー」のコーヒー豆の香りがアイスより強調されている点がホットの強みだろう。僕はほっと息を吐いた。
「……うまい」
思わず口から洩れた感嘆だった。
コーヒーの夢から醒めたのか、急に傍らに気配を感じて、僕は横を見た。
誰もいない。しかし、確かに誰かいた気が……。
そう思い下を向いた僕は、一瞬心臓が飛び出るかと思った。そこには僕をまるで珍しい生き物でも見るかのように見上げる女の子がいた。
あの、僕を異常に怖がる少女だった。
「……」
「……」
一瞬、互いが凍りついた。
しかし、僕は完全に不意を突かれたことへの驚きと、独り言を聞かれた恥ずかしさで顔に血が上っていくのを感じた。思わず後ろに下がった。女の子も完全に僕に気づかれないものと思っていた(もしくは僕の意識に自分は入っていないと確信していた)みたいで、あたふたしながら後ずさった。
 なんなんだよ。この子は一体! よく分からないがここにたびたび姿を現す正体不明の少女だった。
「き、君は一体……なんなんだよ?」
「え? わ、わたし? わたしはわたしよ。向岸ねねよ」
「ねね? 君の名前? 」
「そうよ、普通分かるじゃない。察しが悪くてかわいそうな人」
 ……なんだこの子。急に口を聞いてみれば、少し嫌味くさい。
「向岸さん……か。この病院なんだね? 何棟? 」
「B棟」
「ああ、B棟。ならこの棟の隣だね。歳はいくつ? 」
 僕は彼女の幼い容姿から小学生くらいだと予測した。
「わたしは、十四歳」
「中学二年生? 」
「うん……、中学校には、行ったことないけど」
「へえ……、意外だな」
「え? 何か言った?」
「いや、なんでもない」
随分幼い中学生だな。それに話し方といい口使いといい、まるで小学校低学年だ。
「……ずっとここにいるの? 」
「ううん、ちょっと前に事故に会ってからここにいるの」
「そりゃ大変だね。僕の友達はさ、ここでずっと暮らしてたよ。生まれた時からここにいたんだよ」
「そう。ここに居る子なんて、みんなそんな感じ。おにいちゃんは、ちょっと違うみたいだけど」
 僕はおにいちゃんという言葉が自分を指していることに最初気が付かなかった。そして彼女が少しでも心を開いてくれた、という気がして少し頬がほころんでしまった。
「まあ、僕は違うよ。最近ここに入ったばかりだし、ずっとは居られないかな」
「そう。わたしはそんな風に思わなかった。おにいちゃんはずっとここに居ると思ってた。だって」
 心が病気になってるもん。そう彼女は言った。
「心が病気か。別に僕は、自分では普通だと思ってるよ。確かに精神病で入院したけどね。もうだいぶ良くなってるんじゃないかな」
 しかし彼女は首を振って真っ向に否定した。

 彼女が何か言ったが、僕にはその声が聞こえなかった。
彼女の言葉が遮られたのは、大ボリュームで叫び声を上げる人が緊急搬送されて、休憩所の隣を通ったからだ。
見れば、中年のいかにもおやじ顔をした男性が、移送用ベットに寝かされて運ばれていた。
顔は丸顔だが痩せて頬がこけていた。肌の色がとても白く、しばらく日に当たっていなかったのかもしれない。毛の生え際がかなり後退しており、おでこにはもう前髪がなく、横に二本皺が通っていた。痩せて目がやけに大きく浮き出て見えた。それが電灯の光を反射して、不気味な光を帯びていた。しかめ面をした表情は、まるで昔映画で見たエジプトのミイラの生き返った奴みたいだった。
よく見れば太いロープでベットにガチガチに縛り付けられている。それを運ぶ医者や看護師はなぜかあきれ顔をしている。それに対して患者の男性は「アーッ! 」と喚きながら右手を天に伸ばしていた。四肢をジタバタさせて、金属製の移動ベッドがガチャガチャとうるさい音を立てている。
その一団が嵐のように病院の静寂を破っていった後、再び僕らはぽつんと残された。
「……なんなんだ、今の」
「楓さん」
「楓さん? 」
「そう。肺がんの患者さん。少し前からいるの。だけど、病気で死ぬまえにもう死にたがって何度も窓から飛び降りてる」
「じ、自殺志願者か……。ってか、なんで楓さんのこと知ってるんだよ?」
「仲良しの看護師さんが教えてくれるの。みんな、よく愚痴ってるらしいの。扱いづらくて困った人だって」
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