メトロポリタンな彼女

□後日談、というかオチ
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それからしばらく、人類が作り出した尺度で表すのなら1週間、隆太の心は虚ろだった。
 いままで隆太はそういう精神状態を体験したことがなかったが、とにかく今まで目標にしていたもの、楽しみにしていたもの、生活の意味と意義、勉強のモチベーション、四六時中考えていたものがまるで風船がはじけるように目の前から消えてしまった。自分の中から生活していくことへの気力がまるで湧いてこない。
今まで、恋い焦がれるゆえに見えなかったもの、つまらぬ喧噪、陰口、嘲笑、文句が再び耳から頭へ流れ込んできた。舞台から引き下ろされ、貧しい労働者の群れに加えられたスターのように、今の自分は悲しいくらいに平凡な、どこにでもいる、替えのきく大衆の中の一人に落ちぶれたと思われた。
 目的を失った人間はこんなにも弱くなるものなんだな、そう隆太は思った。人間が日々を生き生き過ごしていくには、何か校則なり出勤なり夢なり惰性なり大切な人なり、何でも良いからとにかく動機となるものが必要だった。それが人の生活に意味を与えるというより、どうやら人がそこに動機を見つけだすという方が正確らしかった。だからそれを失った人間は何を信じればいいのか、分からなくなる。それを探す時間は、それを目指して歩く時間よりはるかに長く、じれったいものだと思う。非生産的で、ぼんやりとした不安に包まれた、それでいて今までよりはるかに遅く流れる時間の中に隆太は放置されていた。
朝起きて着替える。そして居間で朝食を摂る。七時半ごろ家を出て中学校に向かう。ぼんやりと授業を受け、給食を食べる。それが終わったら少し休みがあった後、また授業を受ける。放課後の美術部では、スケッチブックの前で茫然と過ごす。五時頃、家へと帰る。そのすべてに無い気力を振り絞らなくてはならなかった。 
そんな灰色の、目標を持たぬ生活は、四日目からは焦燥感に変わってきた。一刻も早くこの状況を抜け出さないといけない、隆太はそう思った。しかしそこで一つの考えがくっきりと浮かび上がってくる。
―じゃあ、なんのために、何をがんばる気なんだよ。

 尚早に駆られているからと言って、では何を目指せばいいのか、どう目指せばいいのか、そもそも自分にとって何が価値があるのか、自分は何が好きなのか、やるべきこととは何か、その全てが分からなくなっていた。それらを考えれば考えるほど、今までまとまって受け取られていた自分の考えがばらばらに受け取られ、それを一つ一つ眺めるうちに全体の意味が掴めなくなり、余計に泥沼に陥るという有様だった。
 隆太は一人、孤独に部屋に座り込んでいた。ちょうど一週間前の今頃、自分はこれからロッテに告白すべく、しっかりと生きる実感を伴って生活していた。それが今の自分には信じがたかった。
 それでも隆太は自分の中で、今までの出来事を次第に客観的に受け取れる段階にまで回復していた。真に落ち込んだ瞬間というものは、あらゆる慰めの言葉も偉人の言葉も自分自身の言葉も、なんの慰めにもならない。しかしそれでも人間はまた立ち上がる。地震で倒壊した街の中から人々は再び立ち上がり、戦火に焼け切った街のがれきの間から人々はまた立ち上がる。どうやら現実世界に人間が住むように、隆太の心の中にも人間は住んでいるらしい。
 無気力をかき集め、一つの上を目指す上昇志向を作り出す。なぜ上を目指すのか、なぜ上へ行きたいのか、人はそれを知らない。ただそれが人類の、個人の、隆太の本質らしかった。
 そして隆太は世界の新たな断片を知ることができたと思えた。街を流れるラブソングが、今の隆太には以前と違って聞こえていた。それは言葉に出来ないが、自分の中に共鳴する部分が出来ていたのだ。そこで隆太はやっと分かった。自分が作っていたイメージの世界と現実世界は、まったく別のものらしい。恋愛を知識で知った気がしていた自分は、結局何一つ知らなかったのだ。
 現実は、運命は、自分の意思と全く別のところで流れていく。それを隆太は変えられない。でも行動を起こし、実感を通して初めて世界における自分の立ち位置を知ることができる。隆太は、自分がイメージしていたほど自分が大したやつじゃなかったと思った。しかしその平凡さが、今の彼には嬉しかった。自分が世界に触れた気がした。多くの人は知らない、日常に隠された優雅な舞踏会への参加権を、自分が手にした気がした。

 同時に隆太は一つのことに気づいた。自分が勉強をしてきたのは、狭い自己イメージの檻を強化して、誰も近づけまい、壊されまいとする自分の臆病な自尊心と尊大な羞恥心のためだった。そんなことをしなくても、母親や教師の狭い価値観の評価なんて気にしないで、広いこの世界でのびのびと自分を展開してみたいと感じた。きっと広いこの世界の中、本当の自分を認めてくれる存在がいるに違いない。待っているだけでダメなのなら、自分から探しに行けばいいのだ。


 いつものような夕焼けだった。もうすぐ今年は終わり、来年は高校受験が控えている。しかし今の隆太にはそれが取るに足らない、いかにも矮小な問題に思われた。自分が思うよりこの世界は、当たり前なようでいてどこかしこに心躍る秘密を隠し持っているらしかった。
                                      ―完

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