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□霧の街と彼女の居場所(中)
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二月に入った。もうじき冬のとうげを超えるという月になったが、外はまだ一日おきくらいに雪が降ってきて、窓を眺める僕の気を萎えさせていた。
僕は秋と冬の晴れた空が好きだった。
空気が澄んでいて、空が高くて、どこかに大切なものを置き忘れてきたことを感づかせてくれそうな季節なのだ。大切なものが何で、それをどこに置いてきたのか僕には思い浮かぶものはない。ただの気分的な感覚なのかもしれない。


「困ったねえ……」
 藪川は診察室で、僕の前でそう愚痴をこぼした。机に頬杖をついて、眠たげな初老の目をぼんやりさせている。
 今日は毎週の診断で、例の如く藪川の診察室に来ていた。今日の診察室は明かりがついている。白塗りの壁に、入口から見て右側に簡易ベッドが置かれている。その反対側がデスクになっていて、藪川は背もたれの付いた椅子に座っている。僕は回転式の丸椅子に腰かけていた。デスクの上の壁にはレントゲンに使うX線撮影の写真が貼りだされていた。
横から見ると彼のはげかけた白髪交じりの頭髪の、防衛ラインの後退具合が著しいのが分かった。眉毛も白く変色している。
「どうしたんですか? 」
 振られた世間話に付き合わないわけにはいかず、僕は彼に尋ねた。
「いや、最近さ、僕の患者さんがさ、調子がやけに悪いんだ。本当はもうじき退院していいはずだったんだけど、肉体的にも精神的にも変調をきたし始めて」
「何か、事故とか病気の悪化じゃないんですか? 」
「それだったら僕らでどうにかできるんだけど、どうにも原因が分からないから大変なんだよ。今のところ分かっているのは、彼女の変調の原因が精神的なストレスから来るもので、まるで絶えず緊張状態に陥っている風なんだ」
 僕はこの病院に入ってから身に付けた(というか身についてしまった)病気に関する知識を総動員して考えた。病名はすぐに出た。
「それって、神経衰弱ですか? 」
 藪川はそれを聞くと、小さくてパッチリした目を何度か瞬かせた。そして言った。
「きみ、よく知ってるね」
「いや、そういう人って多いみたいじゃないですか。一種の現代病みたいな感じ? 病院以外にもたくさんいるイメージがあります」
「そうだね、そうそう。この病院はそういうのが専門じゃないけど、C棟にはそれの常勤の先生もいるよ。
現代はストレス社会って言われるくらいだから、社会人にもいっぱいいるね。
まあ、現代病ではないかな。明治時代の文豪の夏目漱石なんか、留学先の英国で神経衰弱を発症したくらいだし。
ちなみに、僕も以前罹ってしまったんだ。十年くらい前かな? この病院の管理職を任されたんだけど、普段の業務だけで手一杯で、それでも頑張ってたら、半年後くらいから休んでも全然気分が上がって来なくなってしまったんだ」
「え……それは……」
 僕がとっさにした顔があまりに深刻だったからだろう。藪川は僕を気遣って、手で僕の肩をポンポンと叩いて、なだめてくれた。僕は彼の目を見つめた。彼の心は閉じてしまっているみたいで、瞳は薄く濁って感情は読み取れなかった。
「君が気にすることじゃない。僕は結局、精神の問題で管理職を下ろされたんだ。今はやっと、回復期にさしかかったところだよ。
僕にはやっぱり、患者さんと交流する業務が一番合ってるよ。肌に合わないことを無理にしたのも、神経症の原因だろうね。君は何も心配しなくていい。もうすぐ退院するんだ。今は退院に向けた生活と心の準備をしておきなさい」
 僕は、気にしなくていいと言われると余計に気になると思った。僕の知る藪川は、笑えない冗談を飛ばす、のんきと言える人だった。僕はこの人の心の闇を知ってしまったような気持ちになった。複雑な気持ちになり、彼のことをこれ以上詮索したいと言う気持ちと恐怖心が両方入り混じって、僕の口をふさいでしまった。
 藪川は僕が複雑な顔をしているのを察してか、話題を別に逸らした。
「それで、その患者さんのことだけど、」
 藪川は言葉をつないだ。
「個人情報だから誰がどう、とは言えないけど、似た症状を訴える人がこの病院に何名か確認されたんだ。君の近くにもそうした人がいるかもしれない。もし怪しいと思ったら……」
 そこまで言って藪川は黙った。そうして右手で剃り残しのある、白と黒でまだらの顎髭をじょりじょりと撫でている。どうやら自分の病気のことを言ったのは迂闊だったらしい。他の患者のこともむやみやたらに言うことが出来ず、次の言葉が出てこないようだ。
「まあ、ほどほどに仲良くしておいてくれ」
「仲良くしていいんですか? 」
 僕は、気を付けろとか、変な薬を進められても飲むな、という言葉を予想していた。だから彼の言葉が意外だったのだ。
 藪川は、僕の言葉にさらに返答に困ってしまった。なら無難なこと言っとけよ! と僕は心の中で彼に言った。
「まあ、何を信じるかは人の自由だし、ね。考え方とか信じるものが違うからって、仲間外れにするのは、なんかかわいそうだしね……」
 藪川は本当に困っていた。本人もその患者のことをどう扱えばよいのか分からないようだった。
 僕はここで、なんとなく「なにを信じるか」という言葉が気になった。彼の言葉から推測するに、患者の神経症の原因が本人の考え方にあるようだ。僕はさっきからなんとなく当たりを付けていたことが、自分の中で確信に変わっていくのを感じた。しかも藪川が「かわいそう」なんて言う言葉を使う対象年齢は、かなり限定していいと思う。ちょっと深読みし過ぎかもしれないけれど。
「分かりましたよ、先生」
 僕はそう藪川に答えた。藪川は、自分の曖昧な言葉が通じたのが少し意外だったらしい。
「ああ、分かったの? 本当に? 」
「ええ。それって、……」
 僕は当たりを付けた人物の名前を出すことを止めようかとちょっと考えた。でも見当違いで今後のことを考えるより、ここで素直に言ってしまった方が良いように感じた。言って個人情報云々と言われたら、それはその時考えよう。
「向岸のことじゃないですか? 」
 藪川は僕の言葉を聞いて黙っていた。そしてじっとこちらを見つめている。普段の呑気にも見える彼の表情から考えれば、僕は彼の別の部分を見ているような心持になり、少しだけ勇気を振り絞って見つめ返した。
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