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□霧の街と彼女の居場所(下)
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それから、僕の向う岸への説得の日々が再度始まった。
 ほぼ毎日、休憩所や彼女の病室(!)に行って、彼女の説得を試みた。もちろん、彼女はそんなものを到底聞き入れてくれない。僕を突っぱねる。しかし僕は彼女に接近するほかないから、次の日も懲りずに接近する。突っぱねられる。そうこうするうちに彼女は僕を見た途端に逃げ出すようになる。
僕は、その後姿を見て、なんだか胸が痛んで、病室に戻る。山村老人と話す。また説得するしかない、と決意を新たにする。でも次の日行くのは少し気が引けて、二日後にまた行く。今度は僕が話をすると、彼女は顔面に思いっきり嫌そうな表情を張り付けてくる。僕は当然ひるむが、徐々に打たれ強くなってきたと見えて少しのことでは引き下がらなくなる。すると向う岸の方がうろたえる。その隙に説得しようと一気に踏み込むと、彼女は僕の脇を潜って走って逃げてしまう。僕はその日はうなじをさすりながら病室に戻って、山村さんと話す。
山村さんがどうにかこうにかして、藪川を説得できたと自慢してくる。どんな手段を使ったのか、と僕が尋ねると、事情を大なり小なり盛って話したのだ、という。そして精神科の先生にカルトについて詳しい人がいるから、その人に知恵を貸してもらえると言う。話を聞いていると、どうやら山村さんの説得が効いたと言うより、向う岸の親族から医師へ運動があったらしい。そこに偶然、山村さんが加勢する形で加わったわけだ。
 山村さんは僕に、
「これで外堀はある程度固まった。お前の邪魔立てはおらん。向うの連中にはかまうな。お前が娘っこを、こっちに引っ張ってこればよい」
と言って、自分の任務遂行を誇っている。
 それでも僕は、彼からいくらかの勇気を得て、次の日もいく。すると彼女は僕を見て、すぐ病室に逃げ込む。(そろそろ僕自身が辛くなってきた。徐々に神経をすり減らしていく感じがする。これでも結構、毎回勇気が要るのだ)


 今度は改めて考え直して、三日間空白を空けた。そしてもう一度、彼女の病室の入口近くに設置された椅子に座っていた。しばらくして、彼女がやってくる。
「や、やあ、向う岸」
 毎日やってきたように、僕は向う岸に声を掛けた。向う岸は視線を僕の方に合わせないで、斜め下を見ている。
「う、うん」
 そう言って、だぼだぼのピンクの病院着から出た腕をぶらぶらさせた。
「これからどこに行くんだ? 」
「お手洗い……」
 僕は、しまったと思った。年ごろの女の子に対する態度として、自分の問いかけは思い切りプライバシーを踏みにじるものだった。
「そ、そっか……」
 ごめん、と言って、反省しながら帰ろうと思った。今日はまた一つ、彼女に失礼なことをしてしまった。最近、毎日のように彼女に失礼なことをしていることは自覚している。もっとうまい説得の方法があれば、そっちを取りたいと思う。しかし今の僕が彼女に出来る唯一にして最高の方法は、こんな飛び込み営業みたいな行為でしかないのだ。それも、最近では嫌がる彼女を見続けたせいもあって、僕はもうそろそろ諦めようかと思っていた。別に今すぐこの問題を解決する必要は無い。時間が解決してくれる問題の方が多いと思う。僕の努力でどうにもならないことでも、時間が問題をあるべきところに落ちつけてくれる。それを僕は待っていればいい。実のところ、僕が彼女にしていることが正しいのか間違っているのか、それすら僕には分からない。葉菜が言っていたように、僕は彼女にとって、ただのお節介なのかもしれない。勝手な正義を振りかざして、他人の領域に土足で侵入しているだけなのかもしれない。最近は、病院やら山村さんやら周りからの加勢があって、ちょっと気が高ぶっていただけなのだ。僕一人なら、一、二回の説得でダメなら、もうあきらめたろう。
 僕が後ろを向いて、静かに立ち去ろうとしたとき、後ろから声がした。
「あのさ、今日、ちょっと、時間ある? 」
 僕は振り返ると、向う岸がまだそこに立っていた。しかし彼女は僕の方を向いていない。目線を斜め下に向けて、僕を見ないようにしていた。
 向うのロビーから、人の声ががやがや聞こえてくる。看護師のアナウンスの声が、誰かを呼び出している。医療機器を乗せた金属カートが廊下を滑っていく音がする。老人の世間話の声が聞こえてくる。今日の病院は、いつもよりも活気があった。
 彼女の声はますます小さくなった。それでも、やかましい病院の中、その声ははっきり聞こえた。
「話したいことがあるの」
 彼女の声は、どこか張りつめているようだった。声は小さいのに、病院の騒音の中でも、よく聞き取れた。よく聞こえる声というのは、単純に音が大きかったりよく響いたりするだけではないのかもしれない。そこに一種の、覚悟と言うか気持ちが籠もっていると、それは強く耳に響く声になるように思う。僕は彼女の声を聞きながら、そんなことを考えていた。
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