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□ゾンビと少女と預金通帳(上)
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 薄暗い病室では僕の担当医藪川がしきりに診断書を書いていた。
「で、このところどうだい? 話ではあんまり食欲がないみたいじゃないの」
多分僕が必ず病院食を残しているからだろう。
「心配ないです。……今はなんだか、とても気分がいい。ここ最近はずっと安らかで、心が平穏です」
「そうかい。結構結構。人間は少食になると倹約遺伝子が働くんだ。おかげで食事の量を減らしたところで痩せ衰えることはない。むしろ、脳下垂体からα波とβエンドルフィンが分泌されて安らかな平穏と幸福に包まれるんだ。
最近は体重の減少も止まったし、もう調子は良くなるばかりだと思うよ。君みたいにストイックにできないから、こうなる」
藪川はそう言って自分のお腹の脂肪をぶよぶよつまんで、「はっはっはっ」と大笑いした。
「……ははは……はは」
僕は笑えないギャグに苦笑した。
最近はこの老医師も精神的な距離が縮まったせいか、余計に冗談の回数が増えた。理系でカチコチの医者も多いなかでこの人は特別柔軟で、その点は結構なのだが、たまに自分の診断結果に不安を感じてしまうのだった。
「先生あの…倹約遺伝子ってなんですか? アルファなんとかとか……」
「ああ、倹約遺伝子ね。
人間は飢餓において生き延びるために少ないエネルギーを効率よく使うよう体ができてるんだ。だからホントは一日三食食べる必要も無いんだ。
むしろ、仏教の断食やイスラム教のラマダンみたいに、断食することで体は活性化して体内の傷を治す働きがある。その時には脳が一種の幸福物質を分泌して、精神的にも平穏になるんだ」
「へぇ、知らなかった」
「まあ飽食の時代なんだ。食べすぎて短く生きるか、食べずに長く生きるか、それは本人次第かな」
 ほう、なるほど。なら僕はどっちがいいんだろう。考え方によっては食べたいものを食べたいだけ食べて生きるのもいいだろう。もっとも、今の僕はあまりお腹が空かないし、むしろ満腹では動けなくなってしまうから、あまり食べない方がいいだろうな。
「まあ君はちょっと身長のわりに軽いかな…。運動しないならいいけど、体力の面ではもう少し重い方がいいから、退院後スポーツをする気ならもう少し食べておきな。そうだな、今日から玄米食にしよう」
 そういえば僕は退院後は何をするんだろうか? 
退院したらもちろん日常生活に戻る。僕の日常生活とは、もちろん大学生活。しかし僕は大学に一度も行ったことがないのだから、大学生活とはどんなものか知らない。大学入試後すぐに入院してしまったため、僕には戻る場所が無かった。行くあてはあっても落ち着ける場所は無い。
 僕の高校生活はといえば、たいして身の無い抜け殻みたいな生活だった。なりたいものも、目指すものも、夢中になるものもなかった。友人ともその場限りの関係になってしまった。勉強面でも大した成績をおさめちゃいない。家族との関係は……思い出せない。
でも僕はそれを決して悲観なんてしない。
一体自分にとってなにが幸福で、何が大切なのか。そんなことを考え出すと、僕にとっては、親友と呼べる存在も、燃えるような恋の相手も、大して価値を感じられなかった。「俗物的」とさえ思ってしまう。高校生の頃からそんな灰色の人間だったし、今もそうなのかもしれない。自分では分からない。第一、まだその問いに対する答えはない。自分にとって何が幸福であり、何が価値があるのかという問いの。
 僕はいつも通り診察室を出て、いつもの休憩所へ。目的はいつもの缶コーヒーだった。健康のため一日一本と決めているが、最近は午前中に飲むと夕方になってまた飲みたくなる。砂糖も牛乳もたっぷり含んだ缶コーヒーが健康に悪いことは明白であるけれど、なんだか習慣的に飲みたくなる。もともとコーヒーの含むカフェインも中毒作用のある成分だから、僕はコーヒー中毒なのかもしれない。
なんだかやだな、十八ですでに中毒とか……。
 友好関係が狭い(というか話の合う年代がほとんどいない)この病院ではあるけれど、環境に人間は逆らえないというか、老人たちの会話が自然と耳に入ってくる。そんなことを続けていると、嫌でも何が健康によくて何が健康に良くないかの知識が豊富になってしまう。健康について、敏感になる。
何事も先達はあらま欲しきものなり。そんな学校で覚えた古文の言葉が思い出される。人生の教訓は、人生の先輩から習え、ってことだ。 
 僕が休憩室に行くと、今が旬のリンゴとみかんがカゴに入れられテーブルに置いてあった。そばには果物ナイフが添えてあった。
それでリンゴをむいて、今のコーヒーが飲みたいという欲求をごまかすという手もあっただろう。しかし僕は生まれてこの方リンゴをむいた記憶がなく、みかんも食べたいわけではない。
というわけで今日一本目のホットコーヒーを勢いよく自販機から購入。機械は勢いよく「リーダー」の缶コーヒーを吐き出した。
僕はそれを掴みとり、勢いよく栓を抜き、缶ごしに伝わる液体の温もりを感じながら、一口目を口の中に入れた。「リーダー」に見られる芳醇な香りとコクが僕の口いっぱいに広がり、脳が今日初のカフェインに歓喜している……! ような気がする。そのまま液体は舌の上に甘さと、それでいて存在感のある苦みを残して喉へ。まだ温かさを残して液体は流れて行った。
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