グラジオラス
□39,目覚め
1ページ/7ページ
夏の暑さが和らぎ、深緑の葉が黄みを帯びる、秋の入口。
上弦の陸が倒されたあの夜から、既に二カ月が過ぎていた。
「……」
蝶屋敷の一角、集中治療用の個室にて。
(……夢……か……? ……ここは……俺は……?)
炭治郎の赫い瞳が、薄く開いた。
ぼんやりと霞む眼を何度か瞬かせると、目尻から涙が零れる。
……何か、切ない夢を見ていた気がするけれど、上手く頭が働かない。
"ガシャンッ!"
思考を遮るように、何かが割れる大きな音がした。
炭治郎が音を辿って、部屋の入り口を見ると、カナヲが花瓶を落として立ち尽くしている。
「あ……」
「……カナ、ヲ……?」
「大、丈夫……? 戦いの後、二カ月間 意識が戻らなかったのよ」
「そう……なのか…………そう……か……」
カナヲは、吸い寄せられるように駆け寄り、壊れ物を扱うように、そっと炭治郎の手に触れた。
「目が覚めて、良かった……」
目尻に涙を滲ませるカナヲから、ホッとした気持ちを匂いで感じて、炭治郎は穏やかに微笑む。
「ありが、とう……」
一方。
集中治療用の個室へと続く廊下では、隠の後藤が歩いていた。
(は〜〜……蝶屋敷に上がるの、久々だな)
最近は鬼の出現数が多く、隠も事後処理に大忙しなのだ。
怪我人の搬送のため、蝶屋敷と現場を往復する回数は相変わらず多いものの、患者を届ければすぐに現場へ戻らなければならない。
剣士と違い、交代で休みを取れるのは隠の特権だが、それでも、ベテランを中心に手が回らなくなってきていた。
(坂垣さんとか、部下は休ませるくせに自分は人一倍働くし、いつか倒れそうだよなあ……けど、年も階級も下の俺から休めって言っても聞かねぇだろうし……あの人が倒れて長期間抜ける方が、隊としては大打撃なんだけどな)
どうしたものかと考えながら、カステラを乗せた皿を手に、廊下を進む。
後藤は今日、久方ぶりに休みの番が回ってきて、今朝、蝶屋敷への怪我人を搬送したついでに休みに入った。
とはいえ、今夜にはまた出なければならないので、休みの間に出来ることは限られている。
聞けば、吉原での一件以降、炭治郎がまだ目を覚まさないとのこと。
少し前まで、伊之助と一緒に大部屋で寝かされていたが、伊之助が回復したことで、個室へと移されたらしい。
(あれからもう二カ月も経つのか……吉原、ほぼ全焼だったもんな。柱の本気の戦いってのはえげつねぇわ、ホント……)
上弦の陸が倒された後の事後処理には、後藤も派遣されていた。
まるで、大火事と台風が同時に暴れていったかのようなあの惨状は、忘れられない。
その瓦礫の中で、互いに抱き合いながら気を失っていた、炭治郎たち三人の姿も。
(さすがにあの怪我じゃ死んだと思ったぜ……猪の奴なんか、心臓刺されてただろアレ、何で生きてんだよ……炭治郎に至っちゃほぼ死んでたようなもんなのに、それを生かせる箕舞様も尋常じゃねぇわ……)
その揺羅が、伊之助と同じように命を繋ぎ止めた炭治郎は、特殊な薬がなければ生きていられないほどの究極の小康状態で、二カ月間眠り続けているらしい。
後藤が持ってきたカステラは、そんな炭治郎へのお見舞いなのだ。
(お、戸が開いてる)
誰か来ているのだろうか。
看護師の誰かか、それとも、元酒柱や元炎柱か。
後者であったらと考えると、後藤は無意識に背筋を伸ばした。
緊張に心臓を締め付けられながら、恐る恐る炭治郎の病室を覗く。
(……あぁ、何だ。カナヲちゃんか)
病室にいたのは、蟲柱・胡蝶しのぶの継子、栗花落カナヲだった。
"パキッ……"
「?」
病室に一歩踏み込んだ瞬間、何か硬い物を踏んだ。
見下ろせば、花瓶が割れて、陶器の破片と共に水と花が散らばっている。
(……片付けろや)
後藤は眉間にしわを寄せ、カステラの皿を傍の丸椅子の上に置くと、手拭いを右手にぐるぐる巻きつけ、一先ず破片と花を壁際に寄せ、次に出入りする者が踏まないようにした。
その後、箒と雑巾を取りに行き、破片一つ、水滴の一滴すら残さず綺麗にする。
(……っとに、何でもやりっぱなしだなこの子マジで、カナヲちゃんよ。……全然喋んねぇし、変な子だよ実際。蝶屋敷は箕舞様や胡蝶様も含め、比較的 人格者揃いで話しやすいのに、この子だけ異質なんだよな……。……まぁ、階級上だし、剣士として才能の塊みたいだから、絶対に言えんけど)
手早く片付けを済ませると、後藤はカステラの乗った皿を再び手にして、炭治郎が眠るベッドの傍へ寄った。
「あのー、これカステラ、置いとくんで。暫くしたら下げて下さい。傷みそうだったら、蝶屋敷の皆さんで食べちゃっていいんで」
「……あ……ありがとう……ございます」
「……」
"ボフッ"
皿が、布団の上に落ちた。
高級な甘い香りと共に、カステラが散らばる。
後藤はぷるぷると身を震わせ、カッと目を見開いた。
「意識戻ってんじゃねぇか! もっと騒げやァ!」
口元を覆う面が浮くほどの大声で叫び、呆けた顔でちょこんとベッドサイドに座っていたカナヲを、怒鳴りつける。
「オメェは本っ当にボーッとしてんな! 二カ月ぶりにコイツ目ぇ覚ましてんだぞ! 人を呼べっつーの! みんな心配してんだからよ! 今だけは階級関係ねーからな!」
カナヲはハッとして、後藤にペコペコと頭を下げた。
後藤は部屋の戸口へ駆け寄り、腹式呼吸で叫ぶ。
「きよちゃん! すみちゃん! なほちゃーん! アオイちゃん! 寧々さーん! 炭治郎の意識戻ったぜぇぇぇ!! それから箕舞様! 煉獄様ー! 炭治郎の奴が起きましたー!!」
その大声に反応して一番に駆け付けたのは、なほ・きよ・すみの三人娘。
「わ〜〜〜ん炭治郎さ〜ん!」
「良かったです〜!」
「あんぱんあげます〜!」
「固形物はまだダメだよ〜!」
「カステラ落ちてる〜!」
「勿体ない〜!」
泣きながら、目に付いた事柄を叫び、炭治郎の腕に縋りついた。