グラジオラス
□23,黎明
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「あああああっ……ぐすっ……うぅ……っ」
もう、猗窩座の気配はない。
炭治郎は、森の入口に膝をつき、大粒の涙を流して叫んでいた。
叫ばずには、いられない。
どうしようもない現実への、悲しみと怒りと悔しさを、抑えられない。
……そんな、小さな背中を見つめていた杏寿郎は、フッと笑みを浮かべた。
「……もう、そんなに叫ぶんじゃない」
炭治郎はハッとして、顔を上げた。
「腹の傷が開く。君も軽傷じゃないんだ。……竈門少年が死んでしまったら、俺の負けになってしまうぞ」
涙で濡れた赫い瞳を、杏寿郎は真っ直ぐに見据えた。
「こっちにおいで。……最後に少し、話をしよう」
「……っ」
炭治郎は、唇を噛み締め、涙を拭うと、杏寿郎の傍に駆け寄る。
痛々しい杏寿郎の姿を間近で見ると、再び涙が溢れてきた。
杏寿郎は気にせず、話し始める。
「思い出したことがあるんだ。昔の夢を、見たときに……。俺の生家、煉獄家に行ってみるといい。場所は箕舞が知っている。歴代の炎柱が残した手記があるはずだ。……父はそれを、よく読んでいたが、俺は読まなかったから、内容が分からない」
山の間から昇った朝日が、杏寿郎を照らし、腹部を貫いた猗窩座の腕を、灰に変えていく。
「君が言っていた"ヒノカミ神楽"について、何か記されているかもしれない」
「煉……煉獄さん……もういいですからっ、呼吸で止血して下さい! 傷を塞ぐ方法はないんですかっ?」
杏寿郎は小さく、首を横に振った。
「無い。俺はもうすぐ死ぬ。喋れるうちに喋ってしまうから、聞いてくれ。……弟の千寿郎には、自分の心のまま、正しいと思う道を進むよう伝えて欲しい。……父上には、身体を大切にして欲しいと。……それから」
少し伏せていた視線を、再び持ち上げて、杏寿郎は炭治郎の眼を真っ直ぐに見つめる。
「竈門少年、俺は君の妹を信じる。鬼殺隊の一員として認める」
「……っ」
炭治郎の眼から、さらなる涙が溢れ出した。
「……汽車の中で、あの少女が、血を流しながら、人間を守るのを、見た。……命を懸けて、鬼と戦い、人を守る者は、誰が何と言おうと、鬼殺隊の、一員だ。……胸を張って生きろ」
「……ひっ……ぐすっ」
「己の弱さや、不甲斐なさに、どれだけ打ちのめされようと……心を燃やせ、歯を食いしばって、前を向け。……君が足を止めて蹲っても、時間の流れは止まってくれない。共に寄り添って、悲しんではくれない」
「……うっ……うぅっ……」
「俺がここで死ぬことは、気にするな。……柱ならば、後輩の盾となるのは当然だ。柱ならば、誰であっても同じことをする。若い芽は摘ませない。……竈門少年、猪頭少年、黄色い少年……もっともっと成長しろ。そして、今度は君たちが、鬼殺隊を支える柱となるのだ。……俺は、信じる」
穏やかに、杏寿郎は笑った。
……目が霞む。
心音が遠のいていくのが、自分でも分かる。
(……?)
涙を流す、炭治郎の背後に。
ずいぶんと懐かしい姿が見えた。
(母上……)
あの頃と変わらない、凛とした顔で立っている。
いつも、毅然とした表情を崩さない貴女を、笑わせたくて、仕方がなかった。
偶にしか見られない、穏やかで暖かい、貴女の笑顔が大好きだったから。
(母上……俺は、ちゃんとやれただろうか……やるべきこと、果たすべきことを、全うできましたか?)
心の内で、問いかける。
すると、吊り上がった眉が、下がって。
キリっとした目尻が、ふわりと緩んだ。
『―――立派に、できましたよ』
……そうか……そうか。
……ならば、良かった。
――――――箕舞さん。
「!」
夜明け前の、白み始めた空の下で。
揺羅は、確かな声を聞いた。
「……」
蜜璃と共に、線路沿いを全力で駆ける中。
左眼が、異様に熱くなる。
目を開くと、走る振動に合わせて白い前髪が揺れ、隙間から前方の景色が見えた。
行く先を見据えるその眼に、女性の姿がぼうっと見える。
「……」
あの姿は、知っている。
何故、こんな幻覚を見ているのだろう。
女性の口元が、ゆっくり動いた。
――――――お願いします。
――――――どうか、あの子を。
懇願するように、眉根が下がっている。
死の宣告を受けたときですら、凛とした表情を崩さなかった人なのに。
白く細い指が、進行方向を指さした。
早くそこへ向かってくれと、せがむように。
「……蜜璃、急ぐよ」
「えっ!?」
ここまで全力で走ってきたが、揺羅はさらに速度を上げた。
「ちょっ、待ってください揺羅さ〜ん!」
蜜璃は、ワケが分からないまま、揺羅の後を追いかける。
そこに……
「カァァ! カァァ!」
進行方向から、鎹鴉が一羽、飛んできた。
「煉獄杏寿郎ヨリ、緊急要請・壱〇弐、壱〇弐!」
暗号の意味を理解した途端、二人の背筋を悪寒が駆け抜ける。
刻一刻と迫る夜明けの中、二人は全速力で線路の先へと走った。