アゲラタム

□第五巻
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それから、一時間。

満月が空高く昇ってきた頃。

「ふ〜、ちょっと休憩〜」

白澤は、酔いで火照った体を冷まそうと、部屋の窓を開けた。

涼しい風が、少しだけ酔いを醒ましてくれる。

そのとき、向かいの『大判屋』から、騒がしい声が聞こえてきた。

「すみませーん! 警察ですが、ちょっとお話宜しいですか!」

どうやら、源義経が、ボッタクリの噂を聞きつけてやって来たようだ。

白澤は、窓の柵に頬杖をつく。

「あらら〜、派手にやりすぎて、目ぇつけられたのかな」

何度か行ったことのある店だな〜と思いながら、成り行きを見守った。

大判屋の店主は、責任者がいないからと義経を追い返す。

さすがに店側も、警察への対応は慣れているようだ。

白澤は薄く笑みを浮かべていた。

「ねぇ、白澤様?」

後ろから妲己の妖艶な声に呼ばれ、白澤は満面の笑みで振り返る。

「ん〜? どうしたの妲己ちゃ〜ん」

妲己は、うとうとし始めている薺の肩を抱き、頭を撫でていた。

「薺ちゃんが眠そうよ?」

「ん、あぁそっか〜。もう9時だもんね〜」

早寝早起きな薺にとって、夜9時は就寝時間だ。

今日のところはもう帰ろうかな、と白澤が考えていると……

「大判太夫がいるって店は、ここかい?」

外からバリトンボイスが聴こえた。

何の気なしに窓の外を見ると、向かいの大判屋の前に、いかにも派手な遊び人の恰好をした男がいる。

大判屋の店主は、先ほど警察が来ていた手前、警戒心を隠さず応対した。

「……どこの手合いか知らねぇが、ウチは紹介制だよ。誰ぞの紹介かい?」

男は、辺りをキョロキョロ見渡すと、こちらを見上げてきた。

その切れ長の目と視線が合った白澤は、頬を引くつかせる。

「げっ……」

なんと、男の正体は鬼灯だったのだ。

あんな恰好で一体何をやっているのか……

いつもなら0.1秒で相手を威嚇する白澤だが、あまりに急で予想外な出来事に頭がついていかず、フリーズしていた。

すると、鬼灯は持っていたキセルでこちらを指してくる。

「アイツの紹介」

途端に、大判屋の店主はサァっと青ざめた。

「はっ、白澤の旦那ァ!? 上客じゃねぇか!」

鬼灯はキョトンとした顔で、まさかの予想通り、と呟く。

「すっ、スイヤセンでしたァァ! すぐにご案内いたしやす!」

ドタバタと、大判屋は騒がしくなり、鬼灯はゆったりと店の中へ入っていく。

白澤は、ワケが分からないまま、成り行きを見ていた。







それからすぐに。

白澤は会計を済ませ、薺を連れて店を出た。

満月の今夜はとても明るく、衆合地獄全体もまだまだ活気にあふれている。

「歩ける? 薺ちゃん」

訊くと、薺は目をこすりながら、トロンとした笑顔を向けてきた。

「はい……だいじょうぶです……」

そうは言っても、今にも寝てしまいそうだ。

本当は、おんぶするか、神獣の姿になって乗せていってやりたいが、今日は薬箱を背負っている上に、だいぶ酔っていて飛ぶのは危険だ。

(タクシーでも拾おうか)

衆合の端にあるタクシー乗り場までなら、薺も何とか気を保てるだろう。

「ちょっとだけ頑張れる? タクシー乗り場まで行こう」

そう言って、手を差し出せば、薺は素直に手を取った。

騒がしい花街の通りを、二人は揃って歩き出す。

眠くて足元ばかり見ていた薺は、ふと、白澤の顔を見上げた。

まっすぐに前を向いている横顔は、酒に酔ってはいるものの、きちんと帰れるように理性を保っている。

「……」

……本当はもっと、夜遅くまで楽しみたかっただろうに。

眠くなってしまった自分のために、途中で楽しみを切り上げてくれて。

普段は少しだらしないし、女性を困らせることも多いけれど、本当はとっても優しくて、気遣いのできる素敵な神さま……

薺は、胸がキュっと詰まるのを感じて、無意識にギュっと白澤の手を握っていた。

手に力が籠ったことに、白澤も気付く。

「? どうしたの、薺ちゃん」

薺は、白澤と目が合うと、何となく恥ずかしくて(うつむ)いた。

「い、いえ、あのっ……何でもないですっ」

「……」

何を思ってか、白澤はじっと薺を見下ろす。

そして、クイっと薺の手を引いた。

「……ちょっと、こっち」

「え……?」

タクシー乗り場まであと少しというところで、白澤は脇道に逸れ、路地裏へ入ってしまった。

「あ、あの、白澤さま……?」

薺は、手を引かれるまま、必死で白澤の後を追う。

やがて、ひと気のない、喧騒からも離れた狭い路地で、白澤は立ち止まった。

そして振り返りざまに、薺を抱き締める。

「ひわっ、わっ、えっ!?」

「……ごめん。……ちょっとだけ、このままで居させて」

薺は視線と両手を彷徨わせ、ぎこちなく白澤の白衣を掴んだ。

耳に響く自分の鼓動の向こうから、囁くような懺悔が聞こえてくる。

「……さっきは本当にごめんね。……店で、行き過ぎた悪戯(いたずら)して……」

「え、あ、いえ、そんな、わたしはぜんぜん……」

「僕は我慢が苦手だから、女癖も酒癖も悪いし、ああいう悪戯(いたずら)もしてしまう」

「は、はい……ですが、そのぶん白澤さまは裏表がなく、正直でいらっしゃいます。それは、だれにでもできることではないと思うのです!」

「……優しいね、キミは本当に」

「や、やさしいのは白澤さまのほうです!」

「……。……ねぇ」

「は、はいっ」

「キミはどうして、そんなに自分を卑下するんだい?」

「え……」

「優しくて、頑張り屋で、神仏の理想を体現していると誰もが認めているのに、キミだけは頑なに認めようとしない」

薺は、眉根を下げ、白澤の胸に額をつけた。

「……わたしは、どうあがいても償いきれない罪をおかしました。まだまだ足りないのです。もっとがんばって、もっとたくさんの方によろこんでいただかないと……」

「キミは800年も償いを続けて、今でも悔いる気持ちを忘れていない。そもそも、罪っていうのは関わった者たち全員によって生み出されるんだよ。キミを殺人に奔らせるまで追い詰めた村の連中にも、非はある。当時まだ12歳だったキミには、どうしようもなかったんだ」

「で、ですがっ、実際にわたしは「そうだね、人を殺した事実は消えない。……けど、償いは毎日きちんとしてるじゃないか。それと自己否定とは別物だよね」

「それは……」

「キミは怖いんだよ、また世界に受け入れてもらえなくなるのが」

「!」

「人からも、動物からも拒絶された恐怖が、未だに消えていない。だから、自分は何でも受け入れて、相手には受け入れてもらえるように、自分を小さく低く見せる。……でも、キミはもう分かってるはずだよ。そんなことしなくても、誰もキミを拒絶したりしないってこと」

「……っ」

薺の脳裏に、これまで関わった多くの人たちの顔が浮かんだ。

薺は白澤の背に両手を回し、肩越しに空を見上げる。

涙で滲んだ満月は、ゆらゆらと歪んでいた。

「……キミはもっと、自分の思ったことを口にすべきだ。……僕を救いの神と(あが)めてくれているなら、少しでいいから助言を聞いてよ」

薺は涙を流し、何度も頷く。

「……はい……がんばりますっ」

白澤は薺の頭を撫でながら、自分も決意を固めた。

「一緒に、少しずつ変わっていこう。……僕も、変わらなきゃいけないんだ」

親としてではなく、男として、薺を愛するために。





32,マニアと非マニアの温度差
 
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