グラジオラス
□7,剣と覚悟
3ページ/5ページ
二人が水の呼吸のコツを掴むまで、一か月とかからなかった。
揺羅が、素振りと同時に全集中を使わせていたこともあり、呼吸のコツが掴みやすかったからだ。
……しかし、呼吸のコツを掴むことと、技を放つことは、また別問題である。
「水の呼吸、壱ノ型・水面斬り」
"スパンッ"
カナエが刀を横一文字に振り切ると、目の前に用意されていた巻藁が両断された。
その隣で、しのぶも同じように腕を振る。
「水の呼吸、壱ノ型・水面斬り!」
"ガッ"
巻藁に、しのぶの振った刀が食い込む。
けれど、両断には至らなかった。
しのぶの眉間にしわが寄る。
苛立ちをぶつけるように、巻藁を足で踏みつけ、食い込んだ刀を抜こうとした。
その、今までになく荒れた様子に、カナエはどう言葉を掛けたものかと眉根を下げる。
水の呼吸のコツを掴むと同時、カナエは壱ノ型を難なく出すことが出来た。
それから一週間、カナエの技は日増しに威力が高まっている。
……対して、しのぶはというと、巻藁を一度も斬れていなかった。
二人の修行風景を黙って見ていた巴恵は、瞳に少しだけ悲痛の色を浮かべる。
しのぶがなぜ巻藁を斬れないか分かっているのだが、揺羅に一切助言をしないよう言いつけられていて、歯痒いからだ。
今、揺羅はいない。
仕事に出たきり、八日ほど戻ってきていないのである。
……いつまで、この可哀想な実らない修行を見ていればいいのだろう。
巴恵は胸が痛くなる思いを抱えるが、決して表情に出さないようにして、二人を見守っていた。
「あのね、しのぶ! なんかこうね、バ〜って感じで力を籠めるのよ!」
身振り手振りで懸命に助言しようとするカナエだが、励ましになるどころか、火に油を注ぐだけ。
「姉さんの説明は分かんないっていつも言ってるじゃない!」
「そ、そうね……ごめんね……」
「……。……ごめん、姉さん……私のことは構わないでいいから……姉さんは自分の修行を続けて」
しのぶは滲む涙を隠すため、顔を逸らした。
カナエもそれを察して、眉根を下げる。
「……分かったわ。お互い頑張ろうね?」
そう言って、自分の修行に戻っていった。
……そんな、居た堪れない二人を、ただじっと見ていた巴恵。
二人に聞こえないよう、小さな声で呟いた。
「……こうなることくらい分かってましたよね、揺羅さん」
「まぁね」
「!?」
巴恵は肩を揺らして飛びのいた。
いつの間にか、揺羅が隣に居たのだ。
一気に速くなった脈拍を、深呼吸で落ち着けていく。
「い、いきなり現れないで下さいと、何度言わせるおつもりですか」
「あはは、ごめんごめん」
揺羅はいつも通り、悪びれる様子もなく謝って、胡蝶姉妹を見やった。
カナエの傍には、両断された巻藁が幾つも転がっているが、しのぶの傍には一つもない。
巴恵がチラリと揺羅の横顔を伺い、小声で言った。
「……しのぶさんだけ、一度も成功していません。呼吸そのものには、カナエさんとの違いは見受けられませんし、身体の使い方がおかしいわけでもありません。単純に、力が足りていないように感じますが……」
仄めかすように言葉を切ると、揺羅はキョトンとした顔で巴恵を見る。
「そりゃそうでしょ」
「……。……えっと、あの……」
巴恵はスンと白くなった。
分かっていたなら、何でやらせたんだ……
「しのぶは10歳だ。身体が小さすぎる。技なんか出せなくて当たり前だよ」
「でしたら、何故しのぶさんにも同じ修行をさせたのですか」
「いや〜、あの子は頑固だからね。一度現実を突きつけないと、諦めがつかないだろうと思って」
「諦め……?」
……誰が?
……しのぶが?
それはつまり、才能がないと判断したから、ここで見限るということか……?
揺羅は胡蝶姉妹の方へ声を張った。
「二人とも〜、ちょっとおいで〜」
すると、カナエは揺羅を見るなり瞳を輝かせるが、しのぶは気まずそうに視線を逸らす。
走り寄ってくるカナエに対し、しのぶは背を向けて、その場に留まった。
「師範! お疲れ様です!」
「カナエもお疲れ様。壱ノ型の習得は順調なようだね」
「ありがとうございます!」
「うんうん。……んで、しのぶ〜? 何してんだい、さっさとおいで〜?」
もう一度声をかけるが、しのぶは振り向きもしない。
眉根を下げたカナエが、代わりに頭を下げる。
「申し訳ありません、師範。ちょっと機嫌が悪いようで……」
「……」
揺羅はカナエの頭に手を乗せ、優しくポンポンと撫でた。
……が、しのぶに向けている顔は無表情で、瞳には恐ろしいほどの暗い光が宿っている。
「早く来な、しのぶ」
唐突に放たれた、怒りの声と圧力。
しのぶは勿論、カナエも巴恵も、ビリリと痛むような威圧感を覚えた。
「……っ」
しのぶは紫の瞳に恐怖を浮かべ、恐る恐る揺羅の元へ近づいてくる。
その頭に、揺羅はもう片方の手を乗せた。
ぐりぐりと荒っぽく撫でられ、しのぶは恐怖で固まる。
「どんなに機嫌が悪かろうが、自分で自分に課した使命を貫けなきゃ、戦場に出てすぐ死ぬことになる。分かるね?」
「……。……申し訳ありません……」
しのぶは両手で袴をぎゅっと握り、目尻に涙を滲ませた。
カナエが心配そうにしのぶを見る。
すると、揺羅の無表情がコロっと笑顔に変わった。
「ま、今回はあたしが しのぶのやる気へし折ろうとしてたから、へし折れていいんだけどね?」
そう言ってもう一度頭を撫でると、しのぶの見開かれた目が揺羅を見上げる。
その紫の瞳に、揺羅は優しい眼差しで視線を合わせた。
「しのぶ、アンタの強みは賢さだ。自分の置かれてる状況、分かってるね?」
「……」
しのぶは図星を突かれたような顔をして、再び下を向く。
その頭を、揺羅は撫で続けた。
「この先、カナエと同じ道は進めないよ」
……風の音が、いつもより深く響く。
居た堪れなくて、カナエが首を横に振った。
「待ってください! 今は少し調子が悪いだけでっ……しのぶは凄い子なんです!」
「……いいの、姉さん。……自分のことは、自分でよく分かってるから」
修行を始めてから、何もかもが姉より遅かった。
動物の捕獲も、組手も、呼吸も、剣術も……
歳の差が三つあるんだから仕方ないと思っていたが、きっと師範から見たら、それを差し引いても才能がなかったんだ……
しのぶは勿論、カナエも巴恵も、それ以上は何も言えなくて、肩を落とした。
すると―――
「あれ、何で通夜みたく沈んでんだい?」
揺羅のあっけらかんとした声が響いた。
胡蝶姉妹も、巴恵も、思考が停止したような表情で顔を上げる。
不思議そうにまばたきを繰り返す揺羅の顔が見えた。
「もしかして、あたしがしのぶを見限ったと思ったのかい?」
心外だなァと、景気よく笑う。
「まだまだ無限に伸び代があるのに、こんなところで見限るわけないだろう」
揺羅は、呆けた顔をしているしのぶに微笑みかけた。
「カナエと同じ道は進めない。けど、しのぶにはしのぶの道を進んでもらうからね。ここからは個別修行に移るよ」
見開かれた紫の瞳が、濡れ始める。
しのぶは咄嗟に、涙が零れないよう、顔を伏せて唇を噛んだ。
揺羅は眉根を下げ、しのぶを抱き寄せる。
「ごめんね、あたしの言い方が悪かった」
そして、傍で同じように呆けていたカナエも抱き込んだ。
「まず、カナエにはこのまま、水の呼吸を覚えてもらう。きっと次の春には、最終選別を突破できるだろう。……そしてしのぶは、たくさん食べて寝て、とにかく大きくなりな。それまでは呼吸の型はおあずけ。いいね?」
二人は、ほっとした顔で頷いた。
「「……はいっ」」
カナエが、そっとしのぶの手を握ると、それまで何とか堪えられていた涙が溢れた。
釣られるように、カナエも涙を流す。
それを見下ろして、揺羅は苦笑し、二人をぎゅっと抱き締めた。
「ごめんね、勘違いさせて。……ちゃんとこの先も二人で居られるから。安心しな?」
力強くも優しい腕の中で。
二人は、思い出さないように努めていた母親の暖かさを思い出した。
寂しいのか、ホッとしているのか、あらゆる感情が混ざり合って、何の涙を流しているのか分からない。
それを察して、揺羅は黙って二人の頭を撫で続ける。
チラリと巴恵を見れば、ため息混じりに苦笑していて、釣られるように、揺羅も眉根を下げて笑った。