グラジオラス
□4,酒の呼吸
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―――いったい、どれほど時間が経ったか。
何だかよく分からない間に、揺羅は目的地まで運ばれた。
運ばれる間、隠は何度も入れ替わった。
目的地に辿り着くと、目隠しが外される。
久々の日の光と共に映り込んだのは、鮮やかに咲き誇る藤の花だった。
藤襲山とは比べ物にならない華々しさに、揺羅は一瞬、固まった。
……が、すぐに我に返り、耳栓を外す。
「初めまして、だね。箕舞揺羅」
後方から聞こえた、少年の声。
気づいてはいた。
ここに到着してからずっと、此方へ視線を向けていた気配に。
振り向けば、声に似合う細身の少年が立っていた。
短く揃えられた黒い髪、病的に白い肌、今にも倒れそうに微かに揺れている身体。
揺羅は少年を頭の先から爪先まで見渡し、戦いの癖から強さを測ろうとするが、少年には齢一桁の子供程度の気配しか感じられない。
きっと実年齢も、自分より下だ。
「まずは御礼を。今日まで鬼殺隊の一員として、多くの命を守ってくれて、本当にありがとう」
年端もいかない子供のくせに、黒い双眼は、妙に大人びた雰囲気を宿している。
揺羅は眉をひそめた。
「まさか、アンタが"お館様"?」
「そう呼ばれることもある」
「……」
わざとらしく、揺羅は不信な目を向ける。
少年は、真っ直ぐに揺羅を見据えて、穏やかに微笑んだ。
「分かるよ、その気持ち。私だって、自分の組織の頂点がこんな子供だと知れば、そんな顔にもなる」
……なら、その座に就くなよ。
揺羅の中で、苛立ちが膨らみ始めた。
「自己紹介がまだだったね。私の名前は産屋敷耀哉。鬼殺隊、第九十七代当主をやっている」
「へぇ。小さいのに大変だね」
「まさか。前線で戦う君たちに比べれば、何も辛くない」
その一言で、揺羅の中に溜まっていた苛立ちが弾けた。
茶色の瞳が、じっと耀哉を睨む。
「なら分かるよねぇ? アンタのような弱い人間に、あたしたち現場の人間はついていかないよ?」
それでも、耀哉は顔色一つ変えない。
「そうだね」
……何が"そうだね"だ。
揺羅は刀を抜き、瞬きよりも早く耀哉に詰め寄り、その白く細い首に刃を突きつけた。
「一時期ね、しばらく一緒に鬼狩りをしてた女の子がいる。その子は鬼に捕まって、人質としてあたしの前に連れてこられた。あたしは弱くてね。その子を避けて鬼だけを斬るような力はなかったよ。そしたら、その子どうしたと思う? 自分の刀で自分の首を掻き切ったんだ」
揺羅は、突きつけた刀に殺意を籠める。
「刃は怖いだろう? あの子はこの恐怖を、自らに突き立てたんだよ」
耀哉は、揺羅から怒りと哀しみに染まった殺意を向けられてもなお、微動だにしない。
「アンタに出来るのかい? そういうことが」
すると、白く小さな両手が、刃を握った。
「私の命程度で、誰かが救われるなら、市之瀬七海が帰ってくるのなら、いくらでも差し出そう」
「!」
市之瀬七海。
それは、先ほど揺羅が話した、一時期だけ行動を共にしていた隊士の名だ。
(憶えてるのか……戊の階級の者まで…)
グっと握り込まれた刃が、耀哉の両手から血を一筋生み出す。
「けれど私には、誰かの命に代われるほどの価値はない。君たちのように、鬼と戦うことも出来ない。だから私は、私に出来る精一杯を尽くして、君たちが人を救うための手助けをする」
唖然とした揺羅は、口に入ってしまった空気を飲み込んだ。
流れ出た耀哉の血から、気化して煙のように立ち昇っていた味が、揺羅の味覚を刺激する。
普通は、血そのものを舐めなければ味は分からない。
けれど、耀哉の血には、気化した成分だけでも分かるほど、濃い病の味が染み込んでいた。
……今までに経験したことのない、重すぎる病の味。
兄の病の味が無味に思えるほど、濃い。
耀哉は、見開かれた揺羅の瞳をじっと見つめた。
「何も出来ない私だけれど、だからといって諦める理由にはならない。私には出来なくても、いつか誰かが、鬼を滅ぼし、鬼舞辻を倒す。だから、その日を迎えられるように、繋いでいかなければならないんだ」
「……」
―――何だろう。
この少年の声は、体に染み入る。
気化した血の味からも、覚悟の重さがひしひしと伝わってきた。
きっと、この少年だけのものではない。
何年、何十年、何百年……
幾世代にも渡って積み重ねられた、一人では到底背負いきれないほどの業と覚悟が、彼の体内を流れている。
―――彼は、本物だ。
「……離しな。手が落ちるよ」
揺羅はそっと、耀哉の手に自分の手を添えた。
耀哉の手から、ふっと力が抜ける。
揺羅は刀を抜き取り、鞘に納めた。
同時に、その場に片膝をつき、腰に提げていた八つの竹筒のうち、『一』と刻まれた筒を手に取った。
栓を抜いて傾ければ、傷薬が出てくる。
それを傷にそっと塗り込むと、懐から包帯を取り出して、青白い手に巻き付けていった。
「……御無礼をお許し下さい、お館様。その若さで鬼殺隊の頂点を務めるなど、並大抵の覚悟では成し得ぬこと。それに気付くことも出来ず、身勝手に貴方様を傷つけました」
耀哉は、自分の手を優しく包む、揺羅の手の暖かさを感じて、穏やかに微笑んだ。
「いいや。君の怒りは、君が優しさと正義感に溢れていることの証だ。自分ではない誰かを想い、そのために刀を振れる」
「買い被りすぎです」
「そんな君に、柱の一角を任せたい」
「……。……今、何と?」
「つい先日、柱の一人が上弦の鬼に遭遇し、殉職したんだ。柱は鬼殺隊を支える要。欠員が長く続いては、これまで守ってきたものが守れなくなってしまう」
「……私程度の者、柱には不相応でしょう」
「兄君のことを、悔いているのかな?」
「!」
「すまない、あまり個人の事情に踏み込むべきでないことは、重々承知している。それでも、同じ悔やしさを抱いているのは、揺羅、君だけではないと、伝えておくよ」
今度は、耀哉の両手が、揺羅の両手を包んだ。
「皆、同じだよ。一つ、また一つと強くなっても、掌から零れてしまう命は、零にはならない。それでも前を向いて、一つ、また一つと積み重ねられた者が、今、柱として頑張ってくれているんだ。揺羅、君もその一人だよ」
「……っ」
じんわりと、心の奥底が熱くなった。
……毎日、血反吐を吐くような思いで努力を重ねても、甲なんて階級にまで昇り詰めても、未だに救えない命がある。
何回、何十回、何百回、何千回、心が折れそうになったことか。
本当は泣きたかった、辞めたかった、帰りたかった。
けれど、両親に泣きつくわけにはいかない。
泣きついたら、もう立てなくなることも、必ず後悔することも分かっていたから。
だから、ずっと独りで頑張るしかなかった。
……けれど、本当は独りじゃなかったのだ。
揺羅は、涙を流しながら耀哉を見上げた。
日の光を纏った白い顔は、暖かく微笑んでいる。
「こんな私で宜しければ、柱のお役目、謹んでお受けします」
こんなところに、ずっと自分を見てくれて、一緒に戦ってくれている人が居たのだ。
耀哉は、しっかりと揺羅の手を握り、深く頷いた。
「宜しく頼むよ、酒柱・箕舞揺羅」