英雄と呼ばれた男

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妻であった女


好きだった。
大好きだった。

愛していた。

世界でたった一人の、貴方を。





『嘘…よ…、そう、これは…悪い、夢』
ポツリとうわ言のように女は呟いた。
その表情は色を無くしたようにただ呆然としていた。
『ねぇ、あなた…起きて、こんな時間から寝てしまうなんて、疲れているの?』
膝の上に乗せている冷たくなって動かない人だった男の頭を撫でる。

慈しむように繰り返し繰り返し同じ動作だけを繰り返す、女。

『あぁ、久しぶりにこんなに天気がいいのだから寝ているのは勿体無いわ、そうでしょう?アナタ…』
スルリと髪に指を通して焦点の合っていない女はぼんやりとしていた。

『ねぇ…どうして、目を、開けないの?』
不意に宙をさ迷っていた女の視線がピタリと膝の上の男に合う。

『いつもだったら…私が声を掛けて、すぐに身体を起こして、私に、微笑んでくれたじゃない』
女の手はヒタリと男の右頬に触れる。
『ねぇ、あなた、貴方は…いつもだったら優しい声で“おはよう”っていってくれていたじゃない、』
その声はどこか震えていた。
だけど淡々と無機質に紡がれていた。
何かを、感情を無理矢理押さえつけているかのように。

『ねぇ…嘘…なんでしょう?貴方がいなくなるなんて、私を置いて、逝くなんて、いい加減にしないと、ワタシ許さないワヨ?』
徐々に女の声の震えは治まり、少しずつ可笑しくなっていった。

『ネェ、聴こえているんデショウ?』
女の口端は持ち上がりいつの間にか半月状に弧を描いていた。

無理矢理左手で持ち上げ握り締めた男の右手は硬く、温もりなどなかった。

『ホラ、貴方ノ手デ握リ返シテ?』
女が握った左手を開いたが男の手は動くことなく重力に沿って地面へと落ちた。

男の手が、地面に着いたとたん強い風が吹いた。

その一瞬の瞬きの間に男の身体はどんどんと形を失い空気に溶けだした。

『イヤ、嫌よ!イカナイデ!!!!』
女は失いたくないと男を抱き締めようとしたが次の瞬間には男は、消えてしまった。

残るのはさっきまで触れていた男の冷えた体温と絶望だけだった。




(イヤアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!)


何処かの町の片隅で女の絶叫が響いていた。

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