読処

□名前
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名前というのは、人にとって一番大切な者である。
 その昔、彼女はそう聞いたことがある。そして、その通りだとも思っていた。名前は親から貰う一番最初の贈り物で、彼女は両親から貰ったその名が大好きだし、とても誇りに思っていた。だからこそ、彼女、神谷薫、改め緋村薫には今、譲れないことがある。
 それは、

「だから、いいでしょ。剣心。お願いだってば」
「そうは言われても……」
「何が、いやなのよ。名前って、とても大切なものなのよ」
「それは良く分かっているでござるよ。だから、こそ……、拙者の名前など……」
「いいのよ。この子の親はあなたなんですからね、剣心」
「おろ、それは分かっているでござるが……」
「なら、良いじゃない。この子にあなたの字をあげても」

 腹の中にいる己の子に、剣心の字を与えることだった。
 勿論腹の中の子は、夫である剣心との子。親の字を頂くことは当たり前の事でもあるはずなのに、何故か剣心はずっと渋っている。もう何日も前から交渉してるのに、いつも曖昧に流されてしまう。

「剣心。名前は私達にとってこの子に送る最初の贈り物なのよ。それもずっと残る大事な贈り物よ」
「それはなんども聞いているでござるよ。だからこそ拙者の字は止めた方がよい」
「何でよ。あなたの子なのに」
「分かっている。だから名前はちゃんと他の良いのを考えるから……。な?」

 言い聞かせるように覗き込んでくる剣心の顔から目を反らす。他のでは駄目なのだ。薫はどうしても剣心の文字を子供の名前に入れてあげたいのだ。こんなに素晴らしい人を父に持つのだからその事を誇りに思って欲しいし、剣心の名が薫はとても好きだから。それに剣心に対してもあなたの子なのだと強く思っていて欲しいから。自分の字が入ればもっとよく分かるのではないかと思って。

「薫殿。許してほしいでござるよ。拙者、それだけはどうにも……」

 分かってはいるのだ。
 剣心が子供に自分の名を与えるのを嫌がる理由は。
 剣心は人斬りだったから。そんな自分が幸せになって良いのか未だ悩んでいる様な人だから。そんな事、薫には見せないようにしているけど、一緒に暮らしていれば分かる。自分の人斬りの罪が子供にまで影響をもたらすのではないかと心配して、名前を与えることを怯えている。
 でも、だからこそ、そんな事はないのだと教えてあげたい。

「いやよ」
「薫殿」
「私、剣心の名前とても好きなの。強くて誰よりも優しい剣心にぴったりの名前。だからこの子にも剣心みたいな人になりますようにって思いを込めて付けてあげたいのよ」
「拙者のようなものになどなるものではござらぬよ」
「そんな事はないわ。剣心は優しくて人の痛みが分かる人だもの。確かにたくさん人を斬ったかもしれないけど、その分たくさん傷ついて今を生きている。斬りたくて斬ったわけではないわ。優しかったから。あなたはとても優しかったから」
「優しければ人なぞ、切れぬよ」
「そんなことないわ。ねぇ、剣心」

 少しだけ身を乗り出し、薫は剣心の手を包み込んだ。この気持ちが少しでも伝わりますようにと。

「私ね、剣心のこと大好きよ。だからこそこの子にも剣心の事、誇りに思って欲しいの。だってあなたはとても素晴らしい人なんだもの。すこしでもこの子が剣心のことを誇りに思ってくれますようにって、あなたの字が欲しいの」
「しかし……」
「ねぇ、剣心?」

 ぐずる剣心に薫は最後とばかりにたたみかける。

「あなたは私との子、嫌?」
「そんな事はござらぬ」
「なら、いいでしょ?」

 狡い問い方だと思った。こんな風に言われたら剣心が否定することは出来ないだろう。
 それでも薫は剣心の字が欲しかった。
 名前は一生の贈り物になるから。一番だと思える名前を挙げたかった。薫にとって剣心は全てにおいて一番で誇りだから、その誇りを子供にもあげたかった。

「しかし……」
「剣心。大丈夫よ。大丈夫。あなた素晴らしい人なんだから、そんな人から名前を貰えるこの子はとても幸福なのよ。
 それに、あなたは私が愛した人なんだから、どんな過去があっても素晴らしい人であることは間違いないわ。それともあなた私の人選疑うわけ?」
「そんな事はござらぬよ。ただ、薫は物好きだからな……」
「なによ、それ。私は物好きだからあなたを選んだって言うの。酷いわ」
「すまぬ。だが、拙者を選んでくれるなど薫殿ぐらいしかおらぬよ」
「そんな事ないわよ」
「どうかな。……でも、薫殿、ありがとう。そこまで言って貰えて嬉しいでござるよ。ただ、もう少しだけ考えさせてくれ。薫殿の期待に添える返事を言うようにするから」
「分かったわ。約束よ」
「ああ」

 そっと剣心の小指に己の小指を薫は絡める。小さくふってすっと離れていく小指に薫は切なげに目を細めた。

「剣心、これだけは覚えておいて。例え、過去に何があたって、あなたはあなた。私が知っている緋村剣心はどんな人よりも優しい、私の誇りよ
 だから私の誇りを貶したりしないでね」
「ああ、分かったでござるよ……。ありがとう」



 後日、薫は剣心により字を貰うことを許された。そして、もう一つの字は、剣心の強い要望により薫の父から一時貰うこととなった。
 このことについて剣心は、会ったことはないが、薫殿のような素晴らしい娘を育ってた人、素晴らしい人であることは間違いない。子が拙者のせいで非行に走ることがあってもその名と薫の二つがあれば留まることも出来ようと語っていた。
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