読処

□腕の中の
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 朝、起きると腕に妙なしびれを感じた。同時に暖かな温もりを感じて酷く安堵した。腕の中の何かをギュッと抱きしめる。甘い香りが漂う。
 ああ、薫だ。
 薫殿が腕の中にいた。何日かぶりの薫殿はまるでこの身体の一部かのように馴染んでいる。至福の幸せを感じすり寄る。柔らかい黒髪が頬に当たって少しくすぐたかった。
 穏やかな睡魔が続いており、それに逆らうことなく、目を閉じたまま眠りについていった。



 思い起こせば熟睡できることなどここ数十年とんとなかった。だが、ある日を境にそれが大きく変わった。
 薫殿と一緒に寝るようになった時だ。
 その前から布団で眠ることになれ、熟睡とは言わぬが十分な睡眠を取れるようにはなっていたが、本当に変わったのはその日。
 初めの日あまりにも熟睡しすぎ、いつもより半刻ほど遅く起きた時には酷く驚いたものだった。薫殿といると気持ち良く、安心して眠りにつける。
 一回りも下の彼女に対して使うのも変な言葉かもしれぬが、守られているとそう感じるのだ。
 彼女はいつも暖かい太陽のようで、それは夜になっても落ちることがない。眠っていてさえもその温もりで包み込んでいてくれる。
 腕の中にいる薫殿が暖かい。こうして眠れる事が嬉しかった。



「・・しん。剣心!」
 
 誰かに呼ばれている声が聞こえてきて、目を開けると薫殿が必死に腕の中で藻掻いていた。

「……どうしたでござるか?」
「どうしたじゃないわよ。あなた、こんな格好で寝て! それに何時帰ってきたのよ!」

 薫殿が掴んだ服を見てああと一つ納得してしまった。警察の手伝いで三日間出掛けており、昨日やっとこさ全てが片付き帰ってきたのはいいのだが、着替えないで眠ってしまっていたらしい。
 薫殿の顔を見てからと思ったのはいいが、あまりに安らかに眠っていたものだから己もとつい、眠ってしまったのだ。
 そこはもう仕方ないともう一つの薫殿の問いの方に答える

「昨日の夜中でござるが」
「それは分かるわよ! 私が言っているのは帰ってきたらいくら夜遅くてもちゃんと起こしてねって何度も言っているでしょうが!」
「それは、そうでござるが……。気持ち良く眠っている薫殿を起こすのは忍びなくて……」
「それでも起こしてよね。嬉しいけどびっくりするんだから。……それに出来るだけ早く剣心にお帰りって言いたいんだから」
「そうでござるか?」
「そうよ」

 腕の中で可愛らしく睨んできて、頬を赤く染め、そっぽを向く薫殿が愛おしい。早く起きて着替えなければと分かっているのだが、どうにもそう言う気にはならなかった。
 もう少し、こうしていたい。
 起き出そうとする薫殿に腕の力を強めて阻止する。

「ちょっと剣心、放してよ。もう起きないと……」
「もう少し」
「もう少しって、でも」
「稽古の予定があるでござるか?」
「そうじゃないけど、でも……」
「ならば、もう少し」
「剣心、服着替えないと。昨日のまんまでしょう?
「後でいいでござるよ」
「だけど」

 言い募ろうとする薫殿を抱きしめ直し、甘えるように肩にすり寄る。

「眠いのでござるよ。薫殿」

 幾分、子供のように甘えて声に出せば薫殿の動きが止まる。この声に薫殿が弱いことなど百も承知。素孤児ばかり狡いきもするが、この幸せを逃したくないのだ。

「眠いって、寝てないの。剣心、仕事忙しかった?」
「少し。だが心配することもござらんよ。後少し眠れば大丈夫でござるから」
「そう……」
「ああ、だから大人しく薫殿はこうされているでござるよ。
 後で薫殿の好物作ってあげるでござるから」
「……分かったわ。あ、でも食べ物に釣られた訳じゃないのよ。剣心のためだから」
「分かっているでござるよ。……薫殿」
「何?」
「お休み」
「お休みなさい。剣心」



 優しく笑ってくれる薫殿には悪いけど一つだけ嘘がある。
 忙しかったというのはちょっと嘘。本当は特に言うほどでもなかった。夜も十分眠れるだけの時間はあったのだが薫殿がいなくてなかなか寝付けなかったのだ。
 昔は一人でも十分な量、眠ることが出来たはずなのに今では薫殿がいなければそれさえも難しい。
 こんな事流石に格好悪くていえやしないのだけど……。

 でも、薫殿がいる、今この瞬間が一番の幸せだった。
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