Novel

□綿を食む
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 部屋の中は酷い有り様だった。リビングの椅子は引き倒され、フローリングにはそれを引きずった痕や打ち付けた傷があり、割れないようにプラスチック製のものを用意した食器は棚からほとんどキッチンの床にばらまかれていた。捲れあがったカーペットはぐしゃぐしゃになって部屋の隅に追いやられ、カーテンは引き落とされ、そしてタンスの中の衣類が掘り起こされていた。
 この部屋の惨状を初めて見た者は、空き巣に入られたのか、もしくは破壊のみを目的とした荒れように大型の動物でも飼っているのか連想するかもしれない。しかしこの部屋には空き巣も入らなければ、動物もいなかった。いるのは、六歳の小さな男の子だけだ。

「……カオル?」

 荒れた部屋に慣れた様子で入り、室内を見て回って、また派手にやったなぁと後ろ頭を掻いた後、富田は押し入れの前に移動してそう呼び掛けた。カオルは、この部屋の住人である男の子の名前だ。
「わかるか、カオル。富田だ」
 どうせ聞いてはいないだろうと名乗るのもそこそこに、開けるぞ、と声をかけて押し入れに手をかけた。刺激しないようにそっと押し入れを滑り開ける。カオルは、押し入れの中で膝を抱えて丸くなっていた。微かに震えている様子に怯えていることを確認して、富田はゆっくりと優しく声をかける。
「そろそろご飯の時間だぞ。お片付けして、一緒に食べようか」
 声に反応することなく顔をあげないカオルに、一瞬躊躇いながらも富田は手を伸ばした。そっと腕に触れると子犬のように高い声を上げてカオルはぐずり、身を引いた。拒絶を受け取って富田はカオルとの距離を取り直す。
「……先生は、お片付けしようかな。カオルが手伝ってくれると、すごく助かるよ」
 そう言って笑みを浮かべて富田は立ち上がる。押し入れの襖は閉めないまま、周囲に散らばった物を適当に集めて片付けながらカオルの傍を離れた。



 カオルは富田の子でも、親戚でもない。富田の患者のうちの一人だ。富田は精神的に問題を抱えた児童専門の医者で、富田児童養護精神病院の院長を務めている。この病院では、犯罪などの複雑な事情によって精神に問題を抱えてしまった児童を対象に、保護と療養を行っている。
 カオルは心に深い闇を抱えて、外界からの接触をひたすらに拒んでいる患者だ。精神的に追い詰められて心を閉ざしてしまう子どもを富田は診てきたが、カオルのようにその原因が掴みづらく、悪化することも回復の兆しも見られない子どもは初めてだった。三十代と、院長にしては若い方だが富田もそれなりの経験を積んでいる。しかしカオルに関しては何をすれば良いのかわからず、ずっと手も足も出ない状態が続いていた。
 カオルが心を閉ざし続けるそのきっかけが何であったかはわかっている。それは、母親の変死と父親の失踪、そしてその死体発見を含めた怪事件だ。カオルの家には大量の血痕が残され、母親のものと思われる人骨が地下の物置から発見された。さらに父親の遺体は家から数キロ離れた山で焼死体として見つかったのだ。煙があがっていたので小火が山火事になるかもしれないと駆けつけた近隣住民によって父親の遺体が見つかったのだという。そこからカオルの家に連絡がつかないことが判明し、警察が調査したところ母親は既に殺害され骨のみが残っており、その家には飢えて弱ったカオルのみが残されていた。
 カオルは警察に保護され、その後この病院で療養し身体的には回復をしたものの、精神的には問題が残り、六歳にしては幼い言動を取り、さらに不定期で破壊衝動に駆られるという後遺症が残っていた。人と接触することに怯え、あまり言葉も発さないカオルは両親の死によるショックによって精神が退行し、日常生活に難がある患者と診断された。そうしてカオルが富田の患者となったのだ。出会ってから、もうすぐで三ヶ月が経つ。
 富田との接触に、少しずつ慣れてきたと言ってもカオルはまだ富田を警戒していた。人と過ごすことがカオルには極度のストレスを与えると判断し、カオルには保護観察のためにもともとは患者の家族が泊まり込みのために使用していた病院の施設が与えられた。簡易的なキッチンとリビング、風呂場とトイレがあり、関係者以外一切の関与がないようになっていた。
 関係者のみというのは、病院にいる他の患者やその親族が関らないようにしているだけであって、富田以外の医師や看護師などももちろんカオルの世話をする。しかしカオルは他の人にはほとんどと言って良いほど姿を現そうとさえしなかった。
 富田の場合でも大概隠れてしまうが、そのうちカオルは出てくる。無理に引き出そうとすればそれだけぐずる時間が延びるので、富田は破壊衝動に駆られた後、引き込もって出てこないカオルのことは部屋を掃除しながら気長に待つようにしていた。
 衣類は後でカオルと一緒に畳直そうと一山に集めて隅に寄せ、引っかけるだけの簡易装置のカーテンを元に戻した。カーペットを広げた後、リビングを整えて散らばった食器を集めていると、しばらくして小さな足音が富田に近づいてきているのがわかった。少し進んでは止まる足音に、富田は気づかないふりをする。そしてわざとゆっくりゆっくりと食器を集める手を緩めて、カオルの方からやってくるのを待っていた。
 意を決したようにぱたぱた、と足音がしてカオルは富田が拾おうとしていた食器をひったくるようにして拾う。そしてそのまま顔の前へ食器をつきだしてくるカオルに、ありがとう、と言って富田は食器を受けとる。
 手伝ってくれると助かる、と言った富田の言葉をカオルは実践しているのだ。富田が「いやぁ、助かるなぁ」と大袈裟なほど喜ぶと、カオルは頬を紅潮させて張り切って食器を拾い始めた。それを受け取って、すべて拾い終えると富田は優しくカオルの頭を撫でた。
「カオルのおかげで早く片付いたな。よし、それじゃあご飯にしようか」
 カオルはこくりと頷いて、リビングの自分の席へ向かう。カオルとのコミュニケーションはいつもこうして取っていた。カオルからの接触を待ち、カオルの準備が出来たら、大人が手を伸ばしてやる。受けとる子ども側にも、優しさを受けとるという準備が必要なのだということがカオルを見ているとよくわかる。
 富田が運んできた、カオルに用意された病院食をカオルはちまちまとかじった。いつも完食こそしないものの大半は平らげるのに、なぜか今日は半分ほど食べると食が進まなくなった。
「……もういいのか?」
 驚いてそう問う富田にカオルは頷くと、ぴょんと椅子から飛び降りて押し入れの方に向かって走っていった。こうなるとカオルの興味はもう食には戻ってこないので、仕方なく富田はカオルの食事を片付ける。本当はもう少し食べてほしいのだが、無理を強いてまた押し入れに引きこもられ、コミュニケーションを断たれてしまえば元も子もない。
 カオルは布切れを持って戻ってきた。大事そうにカオルが抱えているその布切れと綿の正体は、ぬいぐるみである。頭と腕が引きちぎられ、腹が裂かれているそれは一体なんのぬいぐるみなのかわからない。それでもそれは、カオルがとても大切にしているものだった。
 そっと机の上にぬいぐるみを横たえると、カオルは椅子の上に立って、富田を見ると棚の上を指差した。ん、ん、と何度も腕に力をこめる。カオルの指差す先には裁縫道具箱があるのだ。カオルが一人で使わないように高い棚の上に仕舞われている。
 富田は棚の上に手を伸ばし、道具箱を取った。瞳を輝かせるカオルに「ちゃんと椅子に座りなさい」と苦笑を浮かべながら落ち着くように言う。
「いいか、カオル。これは危ないものでもあるんだから、先生がいる時しか使っちゃだめだぞ」
 道具箱を抱えて富田がそう言いつけると、こくこくとカオルは頷いた。約束を守れる子にだけ貸してあげよう、と富田は道具箱をカオルに渡す。カオルは喜んで道具箱の蓋をあけ、子ども用の針と糸を取り出した。
 カオルは破壊衝動に駆られると、見境なく手当たり次第に物を破壊する。もっとも、この部屋にはカオルに害が及ばないように危険だと思われるものはすべて排除しているし、カーテンなどは簡易取り付けで子どもの力でも外れるようにしてあり、棚などの大型のものは倒れないようにしっかりと固定してある。カオルが暴れても物が散らかる程度で済むのだ。
 カオルは自分が唯一家から持ってきたものとしてぬいぐるみを大切にはしているが、この破壊衝動の対象であるのはぬいぐるみも例外ではなく、カオルはぬいぐるみをずたぼろに引き裂く。このぬいぐるみが引き裂かれる時が一番強い衝動に駆られている時で、それは部屋の散らかり具合からも察せられた。
 衝動的に物を壊し、押し入れにとじ込もってぬいぐるみを裂き、そして何かに怯えて啜り泣く。カオルの抱える問題が未だに解決されていないことの証拠でもあった。
 カオルは富田がやってきて一緒に食事をした後、必ず自分で壊したぬいぐるみを自分で縫い合わせて直す。子どもの簡易的な縫い付けで補修をするからこそ、次の衝動の波が来たときにもぬいぐるみは簡単に裂けてしまうのだが、カオルはぬいぐるみを他の者に触られることを嫌っていた。縫い始めと縫い終わりの玉止めだけを富田にやらせて、後は好きなように縫い合わせてぬいぐるみを直していく。いつも形状を変えるそのぬいぐるみはカオルと初めてあった時から不思議な形をしていて何の生き物なのかはわからなかった。腕のようなものが頭から自由なバランスで二本生えているので、もしかしたらうさぎのぬいぐるみであったのかもしれないが、原型を探るのは難しい状態だった。
 カオルは楽しそうに針を進め、布切れと綿の塊でしかなかったぬいぐるみに好きな形を与えていく。納得のいく形になると、カオルはぬいぐるみをそっと富田に差し出した。それを受け取って「……アートだな」と富田は小さく呟く。謎のぬいぐるみは前よりも少しくたびれたように見えて、ちょっと痩せたんじゃないか、と言いながら富田は縫い痕を玉止めしてやった。鋏で糸を切り、カオルに返すとカオルは富田の言葉を聞いて不安そうな顔をしていた。そしてカオルは両手で抱えたぬいぐるみと向き合う。
「だいじょうぶです、か」
 富田や他の関係者にはほとんど口を利かないカオルだったが、ぬいぐるみにははっきりと話しかけていた。

『大丈夫だ』

 ぬいぐるみが返答する。引き裂かれたぬいぐるみはしゃべらないが、縫合され、形を得たぬいぐるみはしゃべるらしい。

『ありがとう、富田。カオルを手伝ってくれて』

 そう言ってぺこりとぬいぐるみが頭を下げると、つられるようにカオルも頭を下げた。富田はどういたしまして、と一人と一匹に頭を下げ返す。
 このぬいぐるみの名はピッパーという。カオルの親友であるぬいぐるみで、カオルはピッパーにだけは心を開いているのだ。
 なぜ、ぬいぐるみであるピッパーがしゃべるのか。それは、カオルがピッパーのことを自分の別人格のように扱っているからだ。ピッパーの言葉はカオルの言葉。しかしカオルは自分のものだと認識していない。端から見れば子どもがごっこ遊びをしているかのようにしか見えない戯れだが、他者となかなか意思疎通をしようとしないカオルにとって、このピッパーの存在はとても大切なものだった。カオルが心の中に抱いていても言葉として伝えることのできない想いを、ピッパーが会話という形で代弁して、結果的に富田たちはカオルのことを知ることができているのである。それに、カオルとして話す時は言葉に詰まってしまうのに、ピッパーとして話す時はとても滑らかに言葉を発し、年齢に相応しい姿を見せる。ピッパーは富田とカオルを繋ぐ重要な存在であった。
 大事そうにカオルに抱えられているピッパーだったが、やはりその体はくたびれて見える。綿がしっかりと詰まっていた時とは違って、力なくくたりとしている姿は何とも頼りない。ぬいぐるみではなく、クッションのようだ。
 何度も破かれて中の綿を撒き散らしているのだからしょうがないか、と何気なくそう思い、冨田は頬杖をついてカオルとピッパーの様子を眺めていた。
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