Novel

□はつゆきのしらせ
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 病院の個室で、点滴のチューブに繋がれて少年は眠っていた。名は、志木タクヤ。今年、十歳になる。しかし、タクヤは今年の誕生日をこの病院で眠ったまま迎えていた。
 タクヤはある日眠ったまま、目覚めなくなったのである。病院の医師にはわからないその原因を、タクヤの傍らに座る若い男――向原テツヤは断言した。

 この少年は妄ノノ怪に憑かれている、と。

 向原は、そうした妄ノノ怪によって引き起こされる事件を解決することのできる妄ノノ怪祓い人≠ナあった。

 妄ノノ怪とは、その名の通り妄想の怪物≠フことを示す。それは決まって子どもの強い妄想から生まれ、生み出した子どもの中にだけ存在する空想上の生き物だ。幽霊や妖怪とはまた違うものとされている。
自分で生み出した怪物に取り憑かれるということは、意識を自分の中だけに留めてしまうということだった。タクヤは妄ノノ怪とともに自分の世界に閉じ籠ってしまい、眠ったまま目を覚まさないのである。
 そんなタクヤに、向原はとある方法でコンタクトを取り続けていた。それが、妄ノノ怪電話≠ナある。本体は黒電話のようにダイアル式の古い形をしており、受話器は洋風で凝った装飾が施されている一風変わった電話だ。これは妄ノノ怪祓い人の道具の一つであり、妄ノノ怪の世界、つまりタクヤの意識の世界へと直接通信できる代物であった。
 向原はタクヤの眠るベッドの傍らで、毎日その電話を用いてタクヤに語りかけていた。しかし、今まで一度もタクヤからの応答はない。ただひたすら語りかけるだけの日々が、既に一ヶ月ほど経過していた。

「タクヤ、聞こえるか? 向原だ」

 向原はいつもと同じように、受話器を片手にタクヤに向かって語りかけ始める。しかし今日は一つ、いつもと違うことがあった。その報告に、向原は大袈裟に声を弾ませていた。
「今日はな、タクヤ。先生から散歩してもいいって許可が下りたんだぞ」
 向原は用意していた車椅子を引き寄せる。これに乗って、病院の中と少しだけなら中庭にも行っていいそうだ、と向原はタクヤに向けて笑みを浮かべた。相変わらずタクヤは何も反応を見せなかったが、それは向原も予想していたことであった。むしろ、反応しないからこそ、いつもと違う刺激を与えようということになったのだ。
 向原はタクヤに車椅子へ移乗することを告げ、点滴を車椅子のスタンドに取り付けた。それからタクヤを抱えあげ、車椅子へと乗せる。
「外は寒いから、暖かくしないとな」
 そう言って向原は厚手の上着をタクヤに着せた。さらに靴下とルームシューズを履かせて、膝掛けをかけてやる。中庭に出る時はこれも使うだろうと、向原はマフラーを畳んで膝掛けの上に置いた。
「よし、行くぞ」
 向原は斜めがけの鞄に電話の本体を入れ、受話器だけを肩口に挟んでタクヤに声をかけながら、車椅子を押し始める。からからと音を立て、二人は病室を出た。




 向原は二階の、中庭が見渡せる大きな窓の前に車椅子を押した。十二月に入ってから中庭にはイルミネーションが施され、木々や動物のモチーフなどが、辺りが暗くなると輝き始める。今日はまだ点灯されていないようで、うさぎやトナカイのモチーフが点々と置かれている様が見えた。
「タクヤの部屋からは、このイルミネーション、確か見えなかったよな」
 夜になると綺麗だぞ、と向原は中庭の様子を指差した。当然、眠っているタクヤには見えるはずがない。だからこそ、興味を持ってもらおうと電話で語りかけた。
「もう少ししたらライトがつくと思うんだが……。あまり遅くになると冷えるしなぁ」
 せっかく中庭に出てもよいという許可が下りたのだから、ほんのりと淡い光を発するイルミネーションをタクヤに近くで感じて欲しかったのだが、タクヤの体を冷やしてしまっては元も子もない。外へ出るのはやめておこうか、と向原がタクヤに提案しようと口を開いた時、視界を何かがちらついた。ガラス窓の向こうを、小さな白いものが舞う。
「……タクヤ、雪だ」
 細かな雪が空からさ迷い落ちてきていた。十二月の暮れに、今冬の初雪だ。向原は今朝は空気がしんとして、寒さで目が覚めたことを思い出した。小さな粒が風に煽られながら飛んでいく様子を見て、なるほど、と一人納得する。
向原は目を細めて「今年も、もう終わりだなぁ」と呟いた。クリスマスが終わってしまえば、後は新年を待つばかりだ。後数日で、年が変わる。
「お前は来年、何かしたいこととかあるのか」
 向原は車椅子に座るタクヤの正面に回って、受話器を片方の肩と耳で挟みながらそう問いかけた。上着の襟元を正し、膝掛けをかけ直してやる。相変わらず答えないタクヤに代わって向原は、俺はあるぞ、と話を続けた。
「とりあえず、一つはあるな」
 お前も何か目標を見つけるといいぞ、と向原は笑いながら、体が冷えていないか確認するためタクヤの手を取って握った。
親指の腹で、タクヤの手の甲を撫でた向原の表情が、笑みから驚きへ変わる。
タクヤが、ほんのわずかな力ではあったものの、向原の手を握り返したのだ。思わず向原は、息をつめてその子どもの手をじっと見つめた。


『……ムカイ、ハラ、さん』


 電話の向こうから聞こえてきたか細い子どもの声に、向原ははっとする。勢いよく顔をあげてしまい、肩口に挟んだままだった受話器を取り落としそうになって、向原は空いた方の手で慌てて受話器を握り、再び耳に押し当てた。
「……タクヤ、なのか?」
 恐る恐るそう尋ねると、うん、と小さな返事が返ってきた。見上げれば、いつもと同じタクヤの寝顔が見えたが、電話の向こうで確かにタクヤは向原の声に答えていた。妄ノノ怪電話がようやく通じたのだ。
 これまで毎日のようにあれこれとタクヤに声をかけていたというのに、いざ直接会話となると、何と語りかけたらよいものか、向原にはわからなくなっていた。沈黙のまま、目頭に熱いものが込み上げてくる。それを向原は笑うことで誤魔化し、次の言葉を待っている様子のタクヤに「……ありがとな」と感謝の言葉を口にした。タクヤは突然のことに困惑したように、向原の言葉を復唱した。
『どうして、ありがとう、なの?』
 タクヤから投げかけられた疑問を新鮮に感じながら、嬉しかったからさ、と向原は答えた。
「タクヤが俺の声に答えてくれて、嬉しかったんだ。だから、ありがとう」
 もう一度感謝の言葉を告げた向原に、タクヤは黙る。今度は、向原が言葉を待つ番だった。タクヤが次にどんな言葉を発するのか、という期待と、またタクヤと繋がらなくなってしまったら、という不安とが入り混じる沈黙が訪れる。
 タクヤの小さな、あのね、という声が向原の不安をそっと拭った。知らぬ間に、全身に力の篭っていた向原は息をついてその力を抜く。
『ぼく、したいことあるよ』
 大切な秘密を打ち明けるように、タクヤは声を潜めた。向原もつられて同じように声を潜める。何だ、と問うと、また少しだけ間を置いてタクヤの声が返ってきた。先ほどよりもさらに声を潜めており、ささやきに近かった。恥ずかしそうに告げられたタクヤの言葉を聞いて、向原は瞬く。それから頭をかいた。
「なんだ、じゃあもうそれは達成しちゃったな」
 向原が笑うと、タクヤも嬉しそうに笑っているようだった。えへへ、と笑い声が返ってくる。
『ムカイハラさんのしたいことって、なに?』
 徐々に明るさを増してきたタクヤの声に、向原の喜びもひとしおになる。にっと笑ってお前と同じだよ、と答えた。
「たった今、達成されたところだ」
 ずっと、お前の声を聞いてみたかったんだ、と向原は胸の内で呟く。
 タクヤの手は、微力でありながらも向原の手を握り続けていた。そこに、確かにタクヤの意思を感じて、向原は新たに胸に想いを灯す。
 今はまだ電話越しでの会話に成功しただけで、妄ノノ怪を祓うにはまだ遠い。まだ妄ノノ怪とともにあるタクヤの世界と接点を持てただけだ。これからその妄ノノ怪を生み出すまでに至る経路を知り、そして妄ノノ怪を祓ってもタクヤが生きていけるように導いてやらねばならないのだ。タクヤが目を覚まし、自分の足で歩き、そして電話越しでない、本当の会話ができるようになるまで。
 向原は慣れた調子で受話器を肩口で押さえて、タクヤの頭に手を伸ばす。そっと、優しく頭を撫でた。
「じゃあ今度は、二人で一緒にしたいことを考えないか?」
 その提案に、タクヤは照れの残った様子で、うん、と良い返事をした。これからはタクヤが目を覚ますまで、一方的ではない語りかけが始まるのだ。小さな進歩であっても、向原にとってそれは、大いに胸を躍らせる出来事であった。

 ガラス窓の向こうの小さな雪たちは、少年のか細い声を初雪に乗せて知らせる。静かに点灯したイルミネーションたちに触れ、初雪はふわりふわりと溶けていった。

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