Novel

□竜の子守唄
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 月を見に行こうなどと、また突飛なことを言い出したものだとラルはため息をついた。しかし少年はそんなラルの様子など気にも留めないようで、きらきらと目を輝かせながら着々と脱走の準備をしている。ラルの寝床の扉を、音を立てないようにゆっくりと少しだけ開けて、外の様子を窺った。よし、という嬉々とした声と、前進を示す合図に手馴れていることにまたため息をつきたい思いに駆られながら、ラルは重い体を起こして、少年が指示する方へと移動した。
 少年は力のこもった唸り声をあげながら体全体を使って、重い扉を開けていく。ぎぎぎ、と扉が軋む音がしたが今更そんなことにびくついたりはしない。脱走はお手の物、ということだ。
ようやくラルが通れるほどに扉が開かれ「ラル、行こう」と少年が声を潜ませてラルを促した。やれやれ、とラルは頭を振ってのそりのそりと扉へと近づく。少年はラルの背後に回りこむと、ラルを急かしてその背を押した。
 扉をくぐり、寝床から出る。心地良い夜風が吹きつけてラルは目を細めた。周囲の石造りの建造物からほとんどの光が消えており、穏やかでいてどこか物寂しい静けさの夜だ。上を仰ぎ見れば、雲の多い空にぽつんと孤独に光る白い円と目が合った。
「鞍、つけるよ」
 一応の確認として小さくかけられた言葉に返答すると、少年はラルの両腕の付け根で止め具を固定し、胸部に帯を巻く鞍を装着した。手際良く準備を進める間、少年は静かになり、金具を止める小さな音だけが月明かりの薄暗い夜に響く。
 鞍を装着し終え、そのままラルに跨ろうとする少年にラルは首を回して鼻面でその横腹を軽くつついた。それから、少年の腰にぶら下がっている手綱を渡そうとするが、手で額を撫でられ、やんわりと拒絶される。
「僕たちの間に、そんなものいらないだろう」
 手綱は意思疎通のための道具だ。確かにラルと少年の間には必要のないものだったが、安全のためにつけて欲しかった。そんなラルの思いを知ってか知らずか、少年はくすくすと笑って、ひらりと鞍に跨った。
「さぁ行こう、ラル。誰かさんの食事が終わる前にね」
 冗談めかした物言いの意味は掴めなかったが、ぼやぼやしていて他の仲間にばれるのは面倒だと思い、ラルは空への逃亡を図ることを決めた。
 少年を背に、ラルは大きく翼を広げる。柔らかく、包み込むように風を掴んでふわりと舞い上がった。そのまま、上昇していく。あっという間に、ラルと少年は雲に紛れていった。



* * *

 とある山奥に、竜とともに暮らす古い民族がおり、その民族は“竜の民”と呼ばれていた。本来、人と竜は言葉を交わすことはできなかったが、竜の民だけは言葉ではなく、心を通わせることができた。自然を尊び、生命を慈しむ穏やかな民族であったが、竜という強大な力を持つものとともにあったため、他の民族から受け入れられることはなく、竜の民はひっそりと山奥に小さな村を造って暮らしていた。
しかしもとより少数であった竜の民は、年々その数を減少させ、立派な竜が育ちにくくなり、民族の誇りと伝統を受け継ぐ者がいなくなっていた。そんな衰退の一途を辿る中で、一人の赤ん坊が生まれた。純血の竜の民の子どもであったが、両親はまもなく他界してしまい、村人と“ラル”という両親が育て上げた竜の手で育てられることとなった。
 子どもはラルによく懐き、ラルもまた張り切って子どもの世話をした。片時も離れずそばにいて、夜は子守唄を歌ってやった。竜の民が、竜と意思の疎通ができるとは言っても、人間は竜の声を聞き取ることはできない。人間の声を竜が聞き取ることは可能だったが、その反対はありえないとされていた。竜の声は竜同士にしかわからないのだ。だからいくら子守唄を歌っていても子どもに聞こえるはずがないのだが、子守唄を歌うと不思議と子どもが泣き止むので、何度もラルは歌っていた。
 するとある日、信じられないことが起きた。成長したその子どもが、ラルの子守唄を歌ったのである。しかも“竜の声”を使って。村人には誰一人として子どもの歌声が聞こえなかったが、竜たちには皆聞こえていた。皆驚き、それからその子どもこそが真の竜の民だとして称えた。
 子どもは自由に竜の声を使い、竜たちと言葉を交わした。その才は止まることを知らず、いつしか子どもは、自身が竜そのものであるかのように、自由に竜とともにある存在へと変わっていった。
 その噂は、遥か遠く、王国にまで流れた。竜という巨大な力を兵力として欲した王は、竜たちと言葉を交わし、また竜以外には聞こえない声を持つ子どもの存在に目をつけた。村の竜を兵力とし、その子どもを兵士として育てあげれば竜軍を指揮する兵士が生まれるだろうと考えたのだ。
 村人たちを王国に住まわせ、不自由ない生活を送らせることを条件に、王はその子どもに王国の軍に加わることを命じた。もちろん村人も、ラルも反対したが、厳しく貧しい生活を送っていた村のために、子どもは王国の軍に加わることを決意した。ならば自分は子どもと運命をともにしようと、ラルは王国の軍に自ら志願した。ラルと同じく、数体の竜が子どものために村を離れることとなった。
 賢く、勇敢な子どもは王国に集められた竜たちに臆することなく立ち振る舞い、その実力を村の竜以外にも認めさせた。そうして幾年か経ち、少年は唯一竜の声を使い、竜たちとともに戦場を駆ける最高指揮官となっていた。
 夜、ラルとともに寝床を抜け出して空を自由に駆けても、誰も子どもを咎める者はいないのである。王国には、かつての村人である竜の民がいる。滅び行くだけであった民が穏やかに過ごす日々があるのだから、子どもは窮屈な空であっても、ラルとともにひっそりと飛ぶだけで、それで満足だった。



* * *

 今日の月はね、誰かに食べられてしまうんだよ、と少年はラルの背で嬉しそうに語った。空中を静かにたゆたい、ラルがその言葉に耳を傾け、ほうと相槌を打つと数秒遅れてむくれた少年の声が返ってきた。
「もしかしてラル、覚えてないの?」
 問われた意味がわからず、思わず素直にラルは何がだ、と問い返してしまう。すると「この、大嘘つきのドラゴンめ」と背中に軽い振動があった。どうやら叩かれたようだ。
「僕が小さい頃に、月が欠けるのはお前が少しずつ食べているからだって言っただろう」
 少年に言われて、ようやくラルはそんなこと言ったような気がする、と思い出した。だとしても少年がうんと小さい時の戯れの言葉だ。今もなお信じているとは思えなかった。
「それが、どうしたって言うんだ。随分と昔のことを思い出したんだな」
 別に騙してやろうと思ってついた嘘ではないので、ラルは悪びれることもなく、そう少年に返した。少年は調子を戻して、今日はあの時と同じ月なんだよ、と答える。同じ月とはどういうことだろうか、とラルは少年の言葉を待った。
「今日、昼間に王国の天文学を学んでいる子たちが話しているのを聞いたんだよ。難しくて、よくわからなかったけど……今日は月が、短い時間で欠けて、また元に戻るらしいんだ」
 僕にはよくわからないけど、と少年はもう一度付け足した。
「それを聞いて、小さい頃にもそんな月を見たことがあるなって思い出したんだ。どうして月が消えていくのか、そしてまた現れるのか、僕はお前に聞いた」
 少年の思い出話を聞いているうちに、ラルにも鮮明な記憶が蘇ってきていた。窓から外を覗いて、幼い少年は泣き出しそうな顔でラルを振り返ったのだ。なぜ月が消えてしまうの、どこへ行くの、と。だからそのまま泣いてしまわないように、ラルは嘘をついたのだ。月が消えていくのは自分が月を食べたからだと。けれども月は自然と元に戻る力を持っていて、放っておいてもすぐに戻っていくだろう、と確かにそう言った。いくら子ども相手とは言え、わけのわからない話をでっちあげたものだ、とラルは今になって当時の自分に呆れた。
 ラルの思考を読んだように「お前も変な嘘をついたものだね」と少年は苦笑した。
「それでもその時は、本気だった。次は僕も連れて行ってもらって、一緒に月を食べようと思ったんだ」
 だから今日は一緒に月を食べようよ、と少年は甘えた声を出す。ラルは返答する代わりに、月がよく見える雲の切れ間に入り込み、そこで旋回した。
 月明かりに照らされて辺りは明るい。雲がじわりと流れていくのを目で追っていくうちに、月が欠け始めて、少年が歓声をあげた。ラルは見るまでもなく、その表情を容易に想像することができた。
 一頻り歓声をあげると、少年は静かになった。流れる雲に撫でられて、ラルの翼が空を掴む音だけが響く空間で、静かに二人は欠けた月を見上げていた。
 ふいに少年は再び口を開くと「ねぇ、歌ってよ」とラルに提案した。
「久しぶりにラルの子守唄を聞きたいな」
 ねぇねぇ、と少年はラルの首を撫でながらそうねだったが、眠りこけて落っこちたらどうする、と言ってラルはその願いを聞き入れなかった。昔はねだれば歌ってやった歌だが、今ではその意味も少し変わってきてしまった。
 少年は不満そうな声を漏らしていたが、諦めたのかぽすんとラルの首に体を預けて力を抜いた。落ちるなよとだけラルが忠告すると素直に、うん、と返された。
 背中から、小さく歌声が聞こえた。人が発しているのに、人の声ではない。確かに竜の声であった。耳に心地良いその歌を聞いて、ラルは目を細めた。
 母を求めて泣く子どもをあやそうとして歌った歌だ。幼い頃から、少年はこの歌が好きだった。聞こえてはいないはずなのに、この歌を歌えば泣き止んだのだ。思えばこの時に少年の特殊な能力に気づいてやるべきだった。少年の寂しさを紛らわせるため歌ってきた歌が、まさか少年の運命を左右することになろうとは思いもしなかった。
 ラルが教えた歌が歌えたばかりに、王国の軍などという恐ろしい役職に就くことになってしまったのだ。少年が好きだと言い、ねだるこの子守唄はラルにとって複雑な後悔の心を映し出すようになってしまった。それでも少年が歌ってくれとせがむのは、そして自ら歌い続けるのはラルの想いに気づいてもなお、自分の現状に後悔を抱いてなどいないということを示すためだろう。
「……ねぇ、やっぱり歌って。僕はラルの声が好きなんだ」
 先程よりも甘みを増したとろりとした声音で少年は再度ねだった。抱きしめるようにラルの首に手を回して、落ちたりしないから、と続ける。ラルは観念して、小さな声で了承した。
 欠けた月の空を優雅に舞いながら、ラルは背に乗せた少年のために子守唄を歌った。かつては幼子であったその子は、月の光に浄化された夜風に頬を晒しながら、自らの体温をラルと共有するように身を寄せて笑う。


 月が半分ほど食い荒らされた時、空には二つの竜の声が響いていた。

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