10/07の日記

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平泉先生と関祐二氏へ
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平泉先生と関祐二氏へ

日本書紀に於ける葛城と尾張の繋がりを示す記述を神武即位前記の大和の葛城の地が高尾張邑(村)と呼ばれていたと言う記事以外にも見つけました「それは」允恭五年七月,反正天皇の殯宮を葛城襲津彦の孫搴ハ田宿禰に主催させる。地震が有り、尾張連吾襲に殯宮を視察に行かせるが、玉田宿禰は居ない。実はィ玉田宿禰は出身地の葛城で酒宴を催している。其処で再び吾襲を葛城に使わしたが玉田宿禰は悪事の露見を恐れ吾襲を殺し、武内宿禰の墓に逃げる。天皇は玉田宿禰を召喚する。衣の下に着た鎧を見抜かれ、玉田宿禰は殺される。と言う話[記事]です。レ又既に指摘された様クに古事記等には、尾張氏が葛城の豪族と通婚していたと言う系譜や、葛木H(葛城)の名を負う尾張[氏]系人物の存在が出て来ますし、やはり関祐二氏の云う通り嚏居饉氏]と尾張氏は何か繋がり「接点」があるのでしょうか。#注先代旧事本紀は物部氏と尾張氏は同族だと主張している。

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