お前を好きにならなければ良かった──それは漫画やら小説やらの中で、喧嘩なり仲違いをした恋人のどちらかが発する常套句だ。使い古された悪言だ。こんな思いをするくらいなら、最初から恋なんてしなければ…なんて、衝動に身を任せてバカみたいなたらればを紡ぐ。それは、仲睦まじく過ごしてきた今までの時間全てを否定しているのと同意だ…今までの自分を、過ごしてきた時間を、無駄だった、無為だった、愚行の極みだったと認めているに等しい。






過去を悔いるように簡単に吐き出されるその言葉で、相手がどれだけ傷付くか、吐き出した本人は気付かない。それこそ愚行だと言える。一時の感情の高ぶりで何もかもを否定するような物言いをするなど、許されることではない。そんな奴は愚か者だ。





愚者である。








その愚者が、破天荒だった。






「……あ」





愚者認定を受けた破天荒だったが、しかしすぐ己の過ちに気が付いた。失態に気が付いた。失言に気が付いた。そこだけは褒めることも吝かではないが…だが、出た言葉を取り消すことも、無かったことにすることも出来ない。それは当たり前のことだ。






目の前で、茫然自失としているヘッポコ丸を見たら、弁明の言葉も咄嗟には出て来なかった。





「わ──」




悪い、と反射的に弁明よりも謝罪の言葉を口にしようとしたその矢先、パンッと乾いた音が響いた。それが自分の頬を叩かれたからだと認識するよりも早く、ジンとした熱さと痛みが襲った。たったそれだけのことで、破天荒の謝罪の言葉は日の本に晒されることなく、呆気なく掻き消されることとなった。





手痛い平手打ちを食らわせたヘッポコ丸本人は、ひどく悲しそうな──傷付いた目をしていた。泣いてこそいなかったが、いつ泣き出してもおかしくないような顔をしていた。本当は泣き出したいのだと思う。でも、それでも涙を見せないのは、単なる意地か、強がりか。




「…そんなこと、言うなよ」





開かれた唇から発された声は震えていた。意地でも強がりでも隠せない、泣き出す一歩手前の子供のような、掠れて震えた声。さっきまでの言い争いを全く彷彿とさせない、弱々しさ。さっきまでの威勢の良さはなりを潜め、ひどく矮小な印象を抱かされる。…それだけ。








破天荒の言葉は、ヘッポコ丸の心を、ひどく苛めたということなのだろう。





「本気にするじゃんか…」
「………」
「分かってるよ、そんなの、本心で言ってないことくらい」





お前が本気じゃないことぐらい──




「それでも、」



上がりそうになる嗚咽を必死に押し殺して、ヘッポコ丸は叫ぶ。




「言われたくなかったよそんなのっ…!」





悲痛な声で怒鳴りつけ、脱兎のごとく逃げようとしたヘッポコ丸を、破天荒はほとんど反射で捕まえた。そのまま腕の中に閉じ込め、その動きを押さえ込む。二人の間には明確な力の差があるから、破天荒が本気を出せばヘッポコ丸は絶対に逃げられない。破天荒はそれを最大限に利用して、自分よりも小柄な体を抱き締めた。





それでも抵抗を続けるヘッポコ丸。バシバシと破天荒の腕を殴りつけ、脱出を目論む。




「離せよ! 離せったら!」
「悪かったよ、謝る。んなの嘘だ、虚言だ、本心じゃねぇ。…だから」




だから──





「離せとか言うな。離れていくな」
「やだ…やだ…!」
「お前が好きだ。好きなんだよ…」
「っ…ズルいよ…お前…」




スッ…と、ヘッポコ丸は意外にも簡単に抵抗をやめた。ボロボロと涙を零しながら、自分を強く抱くその腕にしがみついた。破天荒はそのまま、ヘッポコ丸を抱き締め続ける。





「俺が、どんな気持ちになったと思ってんだよ…」
「…悪い」
「俺だって、お前のこと好きだよ。大好きだよ。っ…だから、どんなに喧嘩したって、好きになったこと、後悔したことなんて無い…」
「…おう」
「それなのにっ…お前は簡単にあんなこと、言うっ…」





剥き出しの破天荒の腕がヘッポコ丸の涙で濡れていく。温かいはずのその涙は、紡がれる言葉一つ一つで冷やされていくようだった。もちろんそれは錯覚だ。破天荒が罪悪感から、先非の念から、そう錯覚してしまっているだけだ。



ヘッポコ丸の言葉は止まらない。涙も同じく、止まらない。





「あんなの…俺の想いまで蔑ろにしたのと、一緒じゃんか…」
「………」
「やめろよ…そんなの…」





破天荒の腕にしがみつきながら、ヘッポコ丸は言う。──否、叫ぶ。





「俺を好きにならなきゃ良かったなんて、言わないでよぉ…!!」
「っ…!!」





破天荒は何も言えなかった。何も言えないまま、子供のように泣きじゃくるヘッポコ丸を、掻き抱くことしか出来なかった。自分の胸にヘッポコ丸を閉じ込めて、溢れる涙全てを受け止めた。泣き声が、ひどく耳に痛かった。








本当は、ここでこそ謝るべきで、『好き』と伝えてやるべきなのだろう。そうすれば、ヘッポコ丸は安心出来るだろうし、心を落ち着かせることが出来ただろう。頭ではそうすることが最前だし当然だと理解している破天荒だったが、彼にはどうしてもそれが出来なかった。







感情的になって、不躾なことを言って、安易に傷付けてしまったことは、破天荒に充分な悔恨の情を抱かせている。それでも彼は最良な選択が出来ない。それは何故なのか。





「(ごめんな…ヘッポコ丸…)」





年不相応な泣き声を一心に受け止めながら、破天荒は心の中で謝罪する。声に出さないまま、相手に伝わらない自己満足の謝罪に留める。





「(でも、俺は別の意味で思っちまうんだ)」





──『お前を好きにならなきゃ良かった』





「(そうすればお前は、こんな風に、弱さを見せたりしなかったんだろうから…)」









出会ったばかりの頃…ヘッポコ丸は、弱さを見せない子供だった。強がって、虚勢を張って、自立しようとして、足掻いてた。助けを求めることは弱さだと信じていたし、甘えることは恥じだと信じていた。











『戦士』はそれが当たり前なんだと、信じていた。











その自戒を改めたのは、破天荒と付き合い始めてからだ。ヘッポコ丸は知った。弱さを見せることも、甘えることも、決して悪いことではないのだと。破天荒の前ではどんな強がりも、虚勢も、自立も、足掻きも、全く意味を成さなかったから。全て破天荒に看破されたから。








全てを剥がされ、ただの十六歳の少年にされてしまうから。







ヘッポコ丸は徐々に変わっていった。以前よりよく笑うようになった。たまに弱音を吐くようになった。甘えることに対する抵抗が薄くなった。あまり無茶をしなくなった。涙を見せるようになった。










それらの変化を、破天荒は時々悔やんでしまう。こうした喧嘩や口論の末に、ヘッポコ丸を泣かせてしまった時に。確かに破天荒は、ヘッポコ丸と初めて会った時から、彼をあまり子供らしくないと思っていた。子供のくせに、背伸びばかりしていると思っていた。危なっかしいと思っていた。







その内に好きになって、付き合うようになって、一緒に過ごしながらヘッポコ丸の子供らしさを引き出した。最初は、それがあるべき姿なんだからそれで良いと思っていた。








でも…こうして。






簡単に泣き出すようになってしまった所を見てしまうと、後悔してしまうのだ。自分がしてきたことは、もしかしたらコイツの為にならないことだったんじゃないか…と、考えてしまう。ただの喧嘩で、口論の末の売り言葉(勿論そんな言葉を投げ掛ける破天荒が悪い)でこうもあっさりと感情を乱し、涙を見せるようになってしまったヘッポコ丸を見てしまうと、どうしてもだ。





「(なぁ、お前はどう思ってる?)」





破天荒は心の中で問い掛ける。面と向かって聞く自信が無いから、一人、胸の内に秘めて。





「(俺のこと嫌いにならないって言ったけど…すぐ泣くようになった自分を、お前は許せるのか?)」






涙は弱さの象徴だと信じていた昔を思い出して──嫌気が差したりしないのだろうか。破天荒のせいだと思ったりはしないのだろうか。








そんなこと、破天荒は聞けない。そんなことを聞けば、余計にヘッポコ丸を傷付けることになる。泣かせることになる。だからいつも、頭を過ぎるこれらの疑問を無理矢理忘れる。忘れるようにしている。償いだとは…さすがに思っていないけど。










それでも、当然のことだと信じているから。













破天荒は無言を貫いたまま、泣き続けるヘッポコ丸を抱き締め続けた。それじゃあ何も解決しないと分かっているけれど…そうする以外、彼に出来ることは無かった。
























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重ねた日々の隙間で
邂逅カタルシス/ナイトメア

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