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寡黙と憂鬱に咲く[17]


33.
数回の瞬きで目が覚めた。短くも深い眠りであった気がする。
寝返りを打とうとしたが上手くいかない。
下半身が無気力状態に陥っていた。まだ空気を泳いでいる頭の隅で、激しい情交の記憶を巡らす。

(銀八…)
男の名前を唱えると、高杉はやっとの思いで横たえた身体を翻した。
目の前に男の顔があった。無防備な寝顔だった。

「………」

男の懐はがら空きだった。そこへ飛び込みたくなるほどに。
高杉はさりげなく銀八の大きな胸に身を寄せた。その中で猫のように丸くなる。
呼吸が穏やかだ。
いつだって冷静なこの年上の男は、どんな思いで自分を抱いてくれているのか。
考え出すと心が落ち着きを失う。

何かダメだ。
自分だって人間だから、これだけ身体を重ねれば情だって沸くだろうに。
見えないものに急き立てられている。それに対しての言い訳が負け始めている。
高杉の肉体は急に軽くなり、上体を移動させた。

寝息をこぼしている銀八の口唇を塞いだ。
どうしてこうすると、全てが解放されたように心地よくなるのだろうか。

うなじがくすぐったくなった。
慌てて口唇を離すと、眼前に細められている瞳があった。


「…何かわいいこと、してやがる…」


絶句する。
瞬時に遠のこうとした身体を抱き寄せられた。

「離せって」
「じゃあ何だ、今のは」

後頭部を掴まれ、今度は高杉が呼吸を止められる。
拒絶できないのは肉体的な欲求が満たされるから。
じゃない。
高杉はキスを受けながら、声を甘ったるくあげていた。

「ん…っ、驚かそう、と、思って…」

気持ちが溶けそうになりながら口先で強がった。

「クソガキが」

不意に起き上がった銀八に難なく組み敷かれる。
銀八の表情に抵抗の意志を奪われた。
カーテン越しに陽が差し込んでいた。
自分を見下ろす男の顔に涼しい影を作っていて、高杉は思わず魅了された。

「銀八…」
「………」

今までも息が出来なくなるほどの衝動に襲われたことはあった。
この衝動は記憶にない。性欲以外にも抑えきれないものがあるなんて。

「銀八…俺……」
「………」
「俺…お前を…」
「やめろ」

銀八が声を荒げた。彼は震えたまま高杉から離れた。
それは初めて受けた、確かな拒絶だった。

失意が静かに押し寄せる。
簡単に予測できたはずの現実が、あまりにも残酷に感じられた。

「何も言ってねえよ…まだ」

そんなことなら、最初から突き放してくれればよかったのに。
向けられた背中を睨んだ後、高杉は髪をくしゃっと掻き乱した。

――知ってるかい?『ゆめのくに』は入るときに鐘がなる。何の鐘が知ってるかい?これは魔法がかかるという意味の鐘なんだ。
そして出るときは、この鐘の音は鳴らない。かけられた魔法がいつまでも解けないように。そういう願いをこめて――

いつかの男の声が聞こえた。魔法なんて、かけようのない二人だった。


「俺は途中で降りるが、帰れそうか?」
「ん、ふらふらだけど」
「野郎に襲われんなよ」
「銀八じゃあるめえし…」

目を反らしながら会話した。
この現実から逃れるための、仮の平和を作りたかった。
また会えるのだろうか。駅で電車を待つ間も、その不安感でいっぱいだった。
銀八は口を閉ざしたまま、どことない場所一点を見つめていた。

話したい。話したいのに的確な言葉が出てこない。
脳内の機能が止まってしまっているようだ。
電車の走る音がいつも以上によく聞こえる。
お前は?銀八。

「またな」

ぽんと背中を叩かれる。
顔をあげた時には、銀八はホームに降りていた。
高杉は何も返すことができず、扉は重く閉められた。

またな、なんてこんな時は言わないでほしかった。
振り向こうとしない銀八をドア越しに見据え、高杉は涙ぐんだ。


34.
「浮かない顔してますぜえ。美人が台無し」
「そっか?んー…そうなのか」
「酒も進まねえってのは重症でさあ」

タトゥスタジオに来ることが多くなった。
沖田の“波”の頻度に比例してか、高杉が“彼”の代わりに心に救いを求めてか、ここ数日で二人はうんと距離を縮めていた。
あの日より銀八との連絡は途絶えている。
お互い拒否をしているわけではない。
超えてはならない壁を目の当たりにして、距離の置き方が分からなくなってしまった。

「何を悩んでるのかは知りやせんが…望めば俺はアンタにいくらでも彫ってあげますよ。アンタの心を写して、
荷物を軽くするような絵を彫ってやります」
「沖田…」
「アンタがここに住んでくれるなら、タダでやってもいい…」

隣に腰を下ろしてきた沖田が、高杉の裾を掴んできた。
暫く真摯な瞳で見すえた後、ふっと笑みをこぼす。

「今のは冗談でさあ。でもアンタが来るのは大歓迎っていう意味です」

自分の頬を指でくすぐり、沖田は席を離れる。
少しして茶の入った湯呑を持ってきた。

「お前と住む…か。悪くねえかもな」

沖田を眺めながら、ふとそんな言葉を口に出した。
沖田は微かに驚きを見せた後、

「考えてくれるんですかい?」

不安とはにかみを含んだ目をちらりと寄越してくる。

最近の沖田が可愛いからだろうか。
この刺青師といたほうが、自分は将来的に満たされるのでは、とさえ思えてくる。
いっそ自分なんて、沖田の作品になってしまえばいい。
余計な人間的なものを抱かずに、芸術として彼の手元にあればいい。

「沖田」
「なんです?」
「俺がお前のものになるとしたら…どうしたい?」

え、と沖田は硬直する。

「冗談が過ぎやすぜ」
「俺はいいと思ってる」

嘘ではない。自分の口調がいつになく強いことに、高杉自身が驚いた。
他人に決して執着しまいと思っていたはずが、今はこんなにも止まり木を求めている。
一生支え続けてくれる存在。もしくは、逃げ出しそうな自分を捕まえてくれる存在。
一度は抱いた夢を他の誰かに押し付けたい一心なのかもしれない。

沖田は複雑な面持ちをしたあと、

「そりゃ…アンタの寿命を縮めることをしてえさ」

刺青師の瞳が微かに狂気を宿した。
狂気が前面に押し出されていないのは、まだ相手に物差しを当てている証拠だ。
それをこの手でそっと退けたとき、沖田はどうなるのだろう。
純粋で良からぬ好奇心が高杉の中に渦巻いた。

「ジジイまで生きたいとは思わねえよ。俺は肉体以外、何の取り柄もねえからな」

他人に気づかれて逃げられるのがずっと怖かった。
それを沖田の前では、すっと自然の音として聞かせられた。

沖田は沈黙を置いた後、高杉の目の前にまわり膝をついた。
少し下から見上げてくる。

「肉体だけ欲しけりゃ、アンタを殺して冷凍保存でもすりゃいいのさ。でもそしたら、アンタと話せなくなる。
アンタとの会話はさ、これでもすげえ楽しい。俺ね、アンタの考え方とか発想が好き。善悪になりきれずに、
のたうち回るアンタが好き。欲望や哀愁や様々なものが複雑に入り混じっているアンタの、めちゃくちゃな心が好き」

いつだってこの男は、自分を色眼鏡で見ようとはしなかったと思う。
タイミングさえ合っていたなら、きっとあの男も。


「なら、俺を離さないで」


あいつみたいに置いてかないで。
沖田は黒目を大きくして笑った。

「大丈夫。アンタが頭おかしくなるくらいに独占するから」


35.
進学先の高校が決まり、久々に解放されたときの身軽さを覚えた。
真面目な学生の覆面を被りながら、取り敢えずの受験先に通っただけだ。
周りの子は皆冷静だった。
進学先について熱心に語り合った記憶はない。

「銀ちゃん、何でもこなせるのね。素敵よ」

うっとりとした表情で自分を褒めちぎってくる彼女と、銀八は目を合わせる。
ある日突然、母親だと紹介されて受け入れざるを得なくなった女性だ。
最初こそ戸惑ったが、時間の経過が銀八を寛容にした。

それ以上に彼女の出現は、坂田家の食卓を多少なりとも明るくさせていた。
何より父親の表情が暖かくなった。

贅沢は言わない。自分もさほど子供ではない。
それに彼女自身が母親という意識が低いのか、自分を決して子供扱いしなかったのは逆に良かったのかもしれない。
まるで男と女が、普通に話をしているみたいだった。

「ねえ、今夜はお部屋に行ってもいいかしら。お父さん出張で帰らないの」
「かまわないけど、ワインの相手はできないよ」
「ワインなんていいの。あなたとならワインにも勝る宴になるでしょうよ」

警戒心は強い方だった。
なのにこの時は、母親を知らない寂しさが顔を出してしまったのか、あっさりと部屋に招き入れてしまった。

「母さん?」

女の恐ろしさを銀八はかつて味わったことがなかった。
まだ15の少年をベッドに座らせ、女は恥じらいもなく肌を見せつけた。

「何、して…」
「ねえ銀ちゃん、私ね。ずっと…あなたを見てたの。いつかこの人に抱いて欲しいって思ってたの。
あなたは一見真面目だけど、本来のあなたは違う。あなたって人をいつも見下してる。それがぞっとしてどうしようもなくなる。
私はお父さんよりもあなたが好き。ああ、可愛い。死ぬほど気持ちよくしてあげたいわ。
だからあなたも、気持ちよくして」

形のいい乳房の上に腕を招かれた時、銀八は自身の本能に逆らうことは出来なくなった。

「あら、こんなに勃起してる…凄いわ、すごく大きいのね。きっとあなた、これから沢山の人を魅了するわね」

女は銀八を仰向けに倒し、本性を曝け出すことに未だ躊躇いのあるそこを触った。

「やめっ、そこ…は」
「恥ずかしがることないわ。これってね、動物の自然の行為なのよ。それに、どうせ多くの人に慈しまれるんだもの。
せめてあなたの初めては、私にちょうだい」

巧みな愛撫と女特有の柔らかい声に、銀八の肉体はすっかり酔ってしまい、それに困惑する。
自分が理性を失うなんてことは絶対に無いと、今の今まで考えていたからだ。
裸にされ、女に両腕を縛られた。
(なんだ、コレ…)
おかしい。身体がどんどん熱くなっている。こんな窮屈な体制なのに。

「銀ちゃんて、こういうの興奮するのね…嬉しいわ。こういうの好きな人間は二種類いてね。
虐められることだけに悦びを感じる人間と、虐めることにも悦びを感じる人間。あなたはどっちかしら」

女は少年を性奴隷にしようとしていた。
彼女の趣味は後者だった。綺麗な少年に性的虐待を施し、施されること。

「あっ…あ、く…っは…も…」
「イクのね。なら言って。母さん、俺のおちンぽをイカせて、て言うのよ」
「そんなこと…」
「言いなさい。じゃないとイカせないわ。言ったら、私のアソコにもおちンぽ突っ込ませてあげる。
すぐにイってしまうでしょうね。あなたのだらしないおちンぽだったら」

銀八はぎょっとする。
仮にも自分はお前の息子だ、とそんな一般論はこの女の前では一切通用しなかった。

「あなたって、自分は上品な生き物だと思ってる?違うわ。あなたも私も、人間みんな下品で、
汚いのよ。なのにみんな、無理やり綺麗な仮面を被って繕っている。疲れるでしょ?だからね。
今夜はいっぱいだらしなくなっていいの。本来のあなたを発散させていいのよ」

本来の自分。そんなの、遠の昔によく分からなくなっているけど。
銀八の口は震えを纏いながら、動いた。

「母さん…俺のちンぽを…イカせて…」

屈辱と同時に、五感をかっさらう何かがよぎっていく。
身体の中が透明になったような気がした。
霞んでいく視界に、女の恍惚の笑みが映った。



銀八を現実に引き戻したのは、乗機予定の便が運行中止となり、帰宅を余儀なくされた父親の怒号だった。
父親不在を前提としていた二人は素っ裸のまま、ひとつのベッドを共にしていた。

矛先は再婚の妻ではなく、息子だった。
こんなに怒り狂った父親を見るのは初めてだ。
銀八はベッドから突き落とされた後、何度も鉄拳を顔に浴びた。

「出て行け、お前なんて俺の息子じゃねえ!」

出て行け、という言葉を何度繰り返されただろう。
ぼろぼろの顔で身繕いをして、大荷物を抱えて扉の向こうに行くまで聞こえていた。
そうか。家族ってこんな簡単に崩壊するんだ。
俺のせいか。あの女を抱いたりしたから。もうあの家には戻れない?そんな馬鹿な。
昨日の昨日まで、普通に暮らしていたのに。
いや…きっとそういうもんなんだ。


「ママ…どうして泣いてるの?ねえ、どうして泣いてるの?」

そういう、モンなんだ。
首の後ろが痛くて、うつ伏せの体制に切り替えた。
昼寝をしてしまった。もう夜か。

「ごめん…ごめんね……ママ、どうしても…許せないの…」

濁り硝子の扉の向こうで、二つの影がぼんやり覗える。
一人分の嗚咽が、やがて二人分になる。
会話が途切れて聞こえる。

「やだ…パパとママが別れるなんて、やだっ」
「もう別れてるのと一緒よ!だってあいつはっ」

高く荒がった声が響いた。
銀八は上体を起こした。硝子の向こうの彼女が、握りこぶしを戦慄かせている。

「あいつは…私らのことなんて何とも思ってないよ……あいつといたって、苦しいだけ…
条件が整ったら…あなたを引き取って、逃げてやるんだからっ」

ほとんど怒声ばかりになった時、銀八は再び横になり、布団をかぶった。
結構凄いことを言われているのに、自分の心は酷いくらい閑静だ。

「やだっ、やだやだっ、やだあっ」
「わかってよっ…私はあいつなんて大嫌いっ。死んじゃえばいいと思ってるっ」

死んじゃえばいい、か。
そう思われていて当然だと考えていたけど、音にすると凄まじい破壊力だと、銀八は苦笑した。
人間の輪というやつが崩れていく様を見慣れているせいで、輪を作っては壊し、輪を作っては壊し。
俺という人間は、人を幸せにするということが、まるでわかってない。

「もう、ぶっ壊れちまえ…」

どことなく向かって呟いた。
もう一眠りしておけば、憂鬱な夜も過ぎるだろう。羊でも数えていれば、明日には忘れている。


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