短編

□僕はいま、
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「ただいま。…?」

いつもだったら『おかえりなさい』と玄関まで出てきてくれる彼女の姿が今日はない。靴はあるから買い物に行ったのではなさそうだ。
おかしいな、と思いながらリビングに向かう。

「琥珀さん?…あ、」

リビングに足を踏み入れ目に入ってきたのはソファですやすやと眠る妻の琥珀の姿であった。
彼女のそばに寄り、さらさらとした髪を撫でると思わず笑みがこぼれる。

高校で出会い、卒業と同時に付き合い始めた。それから6年後の一昨年、周囲から多くの祝福を受けるなか結婚となった。

出会ってから今まで本当にあっという間だったように思える。ふと気がつけば、もうじき出会ってから10年になる。
ただの同級生から恋人同士となり、お互い苗字で呼び合っていたのが名前呼びになった。近くにいることでお互いの良いところも悪いところも知った。すれ違いもあって喧嘩もした。
それでも、ずっと一緒にいられた。

『運命』という言葉を帝光中時代のあるチームメイトはよく口にしていた。そのときはその言葉の意味がよくは分からなかったが、今は何となく分かるような気がする。

「ん…、てっちゃん…。おかえりぃ」

目を擦りながら彼女が身体を起こした。

「琥珀さん、ごめん。起こしちゃいましたね」
「んー、大丈夫」
「ソファでお昼寝は珍しいですね」
「お掃除してから休憩がてらにお話してたら眠たくなってきちゃって」
「お話?」

首を傾げる僕に彼女は微笑んだ。

「うん。お腹の赤ちゃんとね」

そう言って、彼女は愛しそうに少しふっくらとしたお腹を撫でた。

彼女のお腹のなかにはもうひとつの命が宿っている。僕たちにとってかけがえのない、大切な、命。

「何の話をしてたんですか?」
「んー、秘密」
「…ずるいです。僕だけ除け者ですか?」

僕がほんの少し口を尖らせると、彼女は『冗談、冗談』と言いながら僕の肩に腕を回した。

「琥珀さん?」
「今までの私たちのこと。高校の同級生だったこととか、色んな所にお出掛けしたこととか」
「僕もその話混ざりたかったです」

ぴったりとくっついた彼女の暖かさを感じながら、僕は彼女の背中を手のひらで撫でる。

「じゃあ、夕御飯食べてからゆっくり話そう」
「そうですね。じゃあ、あとで僕だけが知ってるお母さんの秘密を教えますね」

僕は身体を離し、彼女のお腹に触れながら言った。

「もー、何話すつもりー」
「さ、夕御飯作りましょうか」


リビングは笑い声で満ちていて、僕は心に暖かいものを感じながら、キッチンへ向かった。

うん、僕はいま、幸せだ。

‐END‐
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