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□3:やさしく泣かせる
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 夜中、寄る辺ないようにベッドを降りるナミを何度も見送った。
たまにその頼りなさを見かねてに声をかければ、突然しっかりしたいつもの声で「風が」とか「波が」とかしれっと答えてくれる。
だから仕方なく闇に呑み込まれるその背中を見送った。
ただ今夜は、変に目が冴えて眠れぬ夜の退屈を持て余していたから。

「大丈夫?」

「うん、ちょっと風が気になるから、甲板に出てくる。」

気にしないで、寝てて、と相変わらずしれっと言ってのけるのを無視してもうひと問答。

「顔色がよくないわ」

「ロビンって、そんなに夜目が利いたっけ?」

からかうように笑って取り合わずに部屋を出て行く。
手慣れた受け流し方だと思えば、きっと心配性だったに違いない先代の同室者の顔が浮かぶ。
彼女はその言葉に引き下がったのだろうか。

甲板に出ると、確かにまるで風でも感じてるみたいな素振りでナミは手すりにもたれていた。
身を乗り出して、黒々とした海の上に今にも飛び込みそうに見えた。

「危ないわよ」

「ロビン。寝てていいって言ったのに」

「危ないわ」

前から肩を覆うようにして、ナミを淵から引き離す。
片腕ですっぽり包める小さな両の肩が震えているのに気付いたのは必然だった。

「落ちやしないわよ。落ちたって、私はあんたと違って泳げるし」

「そういう問題じゃなくて、私の心の問題。」

「心配してくれるの?ありがと」

逆になだめるように言ったナミの健気さを、ロビンは笑いたいくらいだった。
泣きたいときに泣けないひとは危ない。
そんな危うさを抱えていながら包容力は確固たるもので、そのアンバランスさがどこか冗談みたいに見えるときがある。

「目を閉じて」

「なんで?」

「ちょっと、実験」

「内容言うと成立しないの?仕方無いなぁ」

意外と素直に目を閉じる。すでにかかっている。声と言葉のマジック。

「なにが見える?」

「何も見えないわ。しいて言うなら黒いの。」

「夜の海?」

「まあ、変わらないわね」

「夜は蜜柑の匂いが強くなると思わない?」

「視界が遮られるからよ、他の器官が麻痺して匂いに敏感になるんだわ」

「そうね」

「もうすぐ花も咲くよ。ほんとうにいい匂い。蜜柑の花、見た事ある?」

「ええ、白くて小さいかわいい花よね」

「そう、大好きな――」

突然に言葉が途切れる。ロビンは抑えた声でそれを補ってやった。

「“大好きな蜜柑畑が、一面、どこまでも続いている”」

「……どこまでも、」

「暗闇の中、なにが見える?蜜柑の匂いで思い出すのは?」

「やめて、」

真っ暗だった瞼の裏で、突然光が弾けて満ちる。
自分の名前を呼ぶ声。呼び返そうとする幼い声。
自分の喉はもうその声を出せないことを知っていて、ナミの喉が引きつる。
期待を裏切るのが怖くて、ナミは口をつぐんで目を開こうとする。
けれど瞼は固い檻のようにぴくりとも動かない。
罠だ。
催眠をかけられてる事にナミが気付いたのも構わず、剥き出しの心にロビンの声が触れる。

「蜜柑畑の向こうに、なにが見える?」

声に背中を押されたように、蜜柑の木の陰から懐かしい顔が覗く。
自分の名前を呼びながら周りを見渡している。その足元に、幼い姉の姿。

「……べるめーるさん」

喘ぐように名前を呼んだ。自分で思っていたよりは、幼い頃と掛け離れてはいない声に少しだけ安心する。
でも言えなかった。ここにいるよとは言えなかった。
彼女が探しているのが自分でないことは分かっている。

「あなたの名前を呼んでいるわ」

「…だめよ、わたしじゃない」

「ナミ」

「もうわたしは、ベルメールさんの知ってるわたしじゃない」

「ナミ」

「こんなタトゥー、見せたくない」

夢の中の動作のように緩慢に、左肩を握る。
幻の中の自分は、今でもそこに悪夢の傷を負っている。

「それでもあなたの名前を呼ぶわ」

「よばないで。わたしはもうここにはいられない。」

白くぼやける縁取りの、ロビンが作り出した夢の世界。
どうせなら自分も、夢らしくあの頃の姿で出してくれればいいものを。
ナミは少しだけ恨み事を言って、飽きもせず自分の名前を呼ぶ声から後ずさる。
もう帰れない世界。
考えずにはいられない。
もし誰も傷つかず今も幸せにあの村で暮らしていられたなら。

この人に出会えなかった。


「ナミ」

きつく閉じた瞼の淵から涙がにじむ。
この声が、ずっと自分を呼んでいる。暗闇の中、潮風の中。
蜜柑の香りに乗って、いいよ、と声がする。

「……ごめんなさい」

その死を悼み続け、あの男を憎み続け、左肩の覚悟を持ち続けなければいけないのに。
あの死すら必然で、あの男すらきっかけで、左肩の覚悟すら運命だったと思ってしまう自分を許せない。
海賊船に乗って、冒険をして、そうしなければ会えなかった人を愛している後ろめたさ。
夜になるたび突き上げてきたもの。


「ごめんなさい」


本当に大好きで、その死を悼み、あの男を憎み、この覚悟も本物なのに。
幻の中、ベルメールが自分を見た。
見紛うはずもないと言うように確信をこめて自分を見詰め、笑ってくれた。

もういいよ、と声がして、その微笑みがゆっくりとグラデーションを残して消えていく。

「ナミ」

名前を呼ぶ声に応えて、綿のようにふわりと瞼が開く。
涙でぼやけた視界でロビンが微笑んでいた。
あの人の笑顔と似ても似つかないのに、似て見えるのは、同じように愛してくれているからだろうか。

「あんたのセラピーは、絶対なんか間違ってる」

「セラピーのつもりはないもの。どちらかと言えば、お祓い?」

「人の母親つかまえてなんつーことを」

涙が脳まで染みこんだか、ぼんやりたゆたってるようなナミが笑う。

「いじわるだ」

「そうよ、私いじめっ子なの」

そうは言ってもやさしい声で、妙に心はすっきりしたナミが、たまらず胸に飛び込む。
大好き、大好きだ。このいじめっ子が。
ベルメールさん、ごめんなさい、この人が、私の好きなひと。





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催眠って言うより暗示で、暗示って言うより刷り込み。
深読みするとすごい黒さです。

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