携帯用NOVEL

□5:自由を奪う
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 ときどき、あの時代がまだ昔と言いきれるほど遠ざかってないことに気付かされる。
ひとりの部屋は、ひときわそんな気持ちを思い起させた。

「あー、しょうもな…」

デスクに両肘をついて、手のひらの隙間から息を吐く。
体裁の為に拡げた航海日誌にぽたぽたと打つ水音が嫌に響いた。
誰への体裁だ。同室者は見張り台に立って、今夜は戻らないのに。

「笑え」

8年間、何度も自分へ言い聞かせた言葉を懐かしく思いながら呟いた。
これは自分への体裁だ。
寝付けないんじゃない、たかだかひとりの夜に怯えて。

「笑え。覚悟を見せろ。」

呪文を唱えれば笑えるはず。
けれどノートを叩く音はやまない。夜は長く朝は遠く、ひとりは孤独だ。

「ロビン、」

新しく覚えた呪文を唱えれば、涙は止まらないけれど頬は笑ってくれた。
自分の喉が吐き出す声は変わらなくても、その名前だけは、いつでもやさしく響く気がした。

「ロビン」

喉につかえたものを通り越して、名前だけ、なめらかにすべって落ちる。

「ロビン」

「なぁに?」

突然うしろから聞こえた声は穏やかで、夜の細胞をひとつも壊すことなくそこにあった。
指先から冷えていく。いつからそこに居たんだろう。

「呼んだでしょう?どうしたの?」

「見張りは?」

「だってあなたが呼ぶから」

「“見てた”の?」

「冷えてきたから上着を取りにきたのよ。そうしたらあなたの声がした。」

濡れ衣に薄笑いで種明かしするさまはおどけたふうで、ナミは振り返らずとも、ロビンがいつもの澄ましたようすで立ってるのが分かった。
少なくとも泣いてるところは見られてない。手元の薄明かりは、部屋に長い影を落とすだけでナミのささやかな秘密は守ってくれる。

「ごめん、出来心」

笑って返せばロビンも笑って、心許ない明かりの中危なげも無く歩いて上着を探す。
クローゼットを探る音、耳に囁きかけた声、ばらばらだった。

「出来心でも、居ないあいだに名前を呼んでもらえるなんて光栄ね」

ぞっとするほど濃厚に色付いた声。首筋に鳥肌が立つ。
反射でランプの明かりを落とした。
部屋は真夜中の空気と同化して、完全な暗闇になる。

「見せてくれないの?」

くすくすと笑う声、罠じみたクローゼットの擬態音は消えていた。

「涙」

能力なんて必要ないのだ、その心ひとつになにもかも見透かされている。
ナミは笑いをこらえる仕草で瞼を覆い、片手でロビンの額を押しやった。

「バカなこと言わないでよ」

押しやる手を掴まれて、ロビンの気配がまたぐっと近くなる。
背骨をなぞるように体を摺り寄せ、わざと意識させるような手つきで前髪を撫であげていく。
惰性で止まらなくなっている涙。さり気なさを装いながら手のひらは頑なに瞼を覆う。
笑い出しそうな声を絞り出して、ロビンが早く、このたちの悪い誘惑を切り上げてくれることを願った。

「見張りにいきなよ。」

「隠してるもの、見せてくれたらね」

「なにも隠してないよ。宝箱はベッドの横、鍵と日記は引き出しの中。体のすみずみまで、あんたに全部明け渡してる」

「まだ足りないわ」

秘密を守る手の甲に爪を立てやさしく引きながら、頬のすぐ横で吐息を吐いた。
経験の甘さを責められるいわれはない。相手が上手すぎるのだ。

「あんたは確かに海賊よ。遅かれ早かれ追われる身になったと思うわ」

「そう?褒め言葉として受け取っておくわね。ほら、前向きがこの船の鉄則だから。」

爪をたてた指が手首に到達してそこに絡む。
ゆっくりと外されることを予測して、涙を拭いとりながら為されるがまま。
両手を捕らえた背後の略奪者は、空腹をなだめるように首筋に噛み付いた。
まるで上品な獣。

「私がこの手を離したら、自分で椅子の後ろに手を回すのよ、いい?」

ナミが、力関係を見極められないほど愚かになれないことを知っているロビンは、返事は待たなかった。
蝶を掴むほどの力しかこめられていなかった手がほどかれて、少しだけ宙をさまよった両手はロビンが開けた2人の体の隙間に回される。
椅子の背もたれに自らで戒められたナミが、生来の気の強さと折り合えず生まれる屈辱に歯噛みする。

「いい子ね」

満足気なロビンの声。でもナミは気付いている、彼女の空腹は満たされていない。

「私に隠し事をした、罪は重いわ」

改めてナミとの隙間を埋めるロビンの体。間に挟まれたナミのふたつの拳が薄い布越しにロビンのなめらかな腹に触れた。

「でも、私の名前を呼んだことは考慮してあげる」

よかったわね、と権力者の声で頭を撫でる。
いまだに見えない相手の顔に浮かぶ表情を、お互い見るより明らかに脳裏に描けた。
さあ、歌うようにロビンが告げる。

「差し引いた分の罰を、受ける覚悟はできた?」


笑え。

覚悟を見せろ。


「ロビン、」

魔法の名前を呼んだら、もうどんな夜も怖くない。


「あんたのお気に召すままに――どうぞ」




笑って口ずさんで見せればいい覚悟ねと、涙ひとつ許さない独裁者も笑う。

夜は長く朝は遠い、ふたりの部屋。



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