夕暮れのキセキ
□階段を越えて君のもとへ
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「橙城さん、顔色が悪いんじゃないか?」
「い、いえ」
わたし、そんなに不健康な顔色なのかな?
監督にそう言われて資料を渡された私は、その場を離れて、一先ずトイレに行って鏡を見た。
「……確かに、ひどいかも」
寝不足を示す隈は目の下にくっきり刻まれて、肌の色も病的に白い。ううん、青い。
たまに押し寄せてくる眠気を遠ざけるように、ぺしぺしと頬を叩いて気合いを入れ直す。
でも、
「………黄瀬くん」
『──俺を、嫌って』
ずんっと心に黄瀬くんの声が刺さった。
どうして?私、やっぱり、黄瀬くんを傷付けたんだ。
でもなんで、そんな遠回しに言ったんだろう。
普通に、「お前なんか嫌いだ」って言った方が、真っ直ぐ伝わるのに…。
「考えても仕方ないか…」
言葉の意味なんて、黄瀬くんにしか知らないんだし。
今は、そういうのを考えないようにしないと、周りの先輩に迷惑かけちゃう。
「よし!」
例え空回りでも、元気出さなきゃ!
……う、でもなぁ。
「はぁー…」
結局、重い溜め息を吐きながらトイレから出た。
まるで鉛が心に沈められたように痛くて、黄瀬くんの悲しそうな表情を思い出すたびに、ぎゅうっと心が萎むように辛くなる。
体育館への廊下がやけに長く思えて、足取りも鉄球を引き摺ってるように重くなる。
体育館には、部活中の黄瀬くんがいることは間違いない。
……今は、黄瀬くんの顔は、見たくない
「どうしたんだ橙城ー!!!!」
「うぎゃぁあ!!」
ギーーーーーン!と耳元で叫ばれて、鼓膜を突き抜けて反対側の耳から声が出ていった感覚。
お、お、大きいよ…!
大音量で他の音を受け付けなくなった耳を押さえると、その人は引き続いて叫んだ。
「今日、すんげえ元気がないぞ!!!お前(ら)しくないな!!!!」
「は、早川先輩………!」
案の定、と言ってはなんだけれど、やっぱり早川先輩。
今日も今日とて熱血です。
「い、今は練習なんじゃ、」
「いや、少し長めに休憩をと(れ)との主将か(ら)言わ(れ)たか(ら)、出てきた!!」
「そうですか………」
相変わらず、ら行の時に舌が回らないせいで、後半の文章はかなり聞き取りづらかったけど…理解はできた。
長めに?
今日は特別何かあるわけでもなかったし、なのに?
「取(り)敢えず、その資(り)ょう貸せ!お(れ)が持ってってや(る)か(ら)、お前も休め!!!」
「え、ちょ!?」
ああ、早川先輩、そんな資料乱暴に引ったくったら、ぐちゃぐちゃになりますよ!
しかも私の仕事だし……というか、部員の為に取られた休憩なのに、休まないといけないのは早川先輩なのに!
「今にも倒(れ)そうだ!!いいか(ら)任せとけぇぇぇ!!!!」
「は、早川先ぱ……行っちゃった」
早川先輩は燃えるようなオーラをたぎらせ、その勢いのまま廊下をダッシュで駆け抜けた。
持つものが何もなくなった行き場のない手を下ろす。
早川先輩にまで、気を遣わせちゃった……。
このままじゃいけないのは分かる、けど。
どうすればいいか分からない。
もし黄瀬くんが、私を嫌いになったのなら、
寂しいけど、マネージャーを辞めた方が、周りの先輩たちにも迷惑かけないでもいいし、何より黄瀬くんの為にもそれが一番だ。
でも、それは嫌だ。
どうして?
「いたいた、橙城さん」
「!小堀先輩、お疲れさまです」
「そっちもな」
今度は小堀先輩。
廊下の向こうから来たんだろうけど、物思いに耽っていた私は気付かなかった。
いたいたってことは、私に用でもあったのかな?
私は出来るだけ笑顔で「どうしたんですか?」と尋ねると、小堀先輩は、頬を少し掻いた。
「いや、ちょっといいか?」
小堀先輩に連れられて、私は体育館裏へとやって来た。
中からは、自主練習をしている部員の活気ある声が聞こえてきた。
「早川に驚いたろ?アイツ、きっと何か言いたかったんだろうけど、考えがまとまらない内に体当たりしちゃったから、支離滅裂だったろ?悪いな」
「いいえ、先輩たちに気遣われてる私が不甲斐ないだけです。謝るなら私の方ですから……」
体育館裏の僅かな段差に二人並んで腰掛けるも、小堀先輩のこの行動の意図が掴めなかった。
早川先輩のことを謝罪するだけとは思えない。
「あの、小堀先輩。ど、どうして…」
「ああ、悪い。少し気になってな。……言わなくても分かるだろ?」
小堀先輩の言葉に、私はすぐに黄瀬くんの顔が脳裏に浮かび上がった。
それだけで目頭が熱くなり、ぐっと堪えた。
「……そ、そんなに、分かりますか?」
「黄瀬と全く話さないから、それだけで」
……やっぱり。
違和感を察せられない為にも、普通に黄瀬くんと接しようと思ったけど、頭で何度も行ったシュミレーションも、黄瀬くんの前じゃ全て無意味になる。
何となく気まずくて、そしてそれは黄瀬くんも同じようで、目すら合ってない。
「まぁ、俺相手だと頼りないかもしれないが、心配なのは皆一緒なんだ。迷惑かもと遠慮してるんだろうけど、むしろ橙城さんは後輩。多少俺たち先輩に迷惑かけてでも甘えるべきだ」
「小、堀先輩………」
小堀先輩の優しい言葉に、じわりじわりと視界が滲んでいく。
泣き顔は流石に見せれない、膝を抱えて顔を伏せた。
「わ、たし…黄瀬くんに、嫌われたんです」
「黄瀬に?」
「っ、それで、分かんないんです…わたし、マネージャーであり続けたら、黄瀬くんの邪魔になるからっ、辞めた方がいいと思ってるのに……いやで、」
「……」
小堀先輩は何も言わない。
それはそうだ、部員の目の前で、マネージャーが不仲ぐらいで辞めようとか弱音を吐いてるんだから。
でも、小堀先輩は、私の言葉を否定しなかった。
「橙城さん。黄瀬といるとき、楽しいか?」
「え……?」
唐突の質問に、反射的に顔を上げて小堀先輩の顔を見た。
小堀先輩は少し緩く笑って、「曖昧でもいいから、素直に答えてな」と言う。
黄瀬くんと、いるとき?
「……たのしい、です」
「じゃあ、黄瀬が困ってるときはどうしたげたい?」
「…それは、力になってあげたいって…」
「うーん、少し突っ込んでみるか」
すると、今までの微笑みから一転、きゅっと口元を結んだ小堀先輩の目は、真剣なものだった。
「黄瀬に嫌われて、どう感じた?」
黄瀬くんに、キラワレテ?
それを思うだけで、心がねじ曲がって苦しくなる。
ねじれた心から絞られたように、涙が一筋落ちた。
「っ、きら、われて…つらかった」
「辛かったか」
「はい……っ、きらわれちゃったって思ったら、悲しくて、くるっ、しくて…でも、黄瀬くんが嫌なら、はなれない、とって…思って、でも、でも、」
私は、嫌だった。
黄瀬くんがどれだけ私を嫌っても、そのことがどれだけ私を辛く締め付けても、
私は、黄瀬くんと、いたい
黄瀬くんと過ごした、短いけれど楽しくて暖かく思えた、あの日々を、もう一度。
あぁ、そっか。
わたし、
「…それを伝えた方がいいよ」
小堀先輩は立ち上がって、持っていたタオルを近くに備え付けられていた水道の蛇口を捻って浸す。
伝える?
……黄瀬くんに?
「っ、もっと、嫌われちゃうかも」
「黄瀬は橙城さんが思ってるほど、軽いヤツじゃない」
ぎゅうっとタオルを絞って水気を切ると、それを私に差し出してくれた。
なんだろう、とそれを見つめていると、小堀先輩が苦笑いをした。
「目元、冷やさないと。会いに行くんなら、少しでも腫れを防がないとな」
「…ありがとうございます…」
受け取って、泣いて赤くなったであろう目に当てる。
ひんやりと目元が冷えていくのと同時に、思考も落ち着いてくる。
そうだ
伝えないと
立ち止まってたら、進めない
「…小堀先輩っ、あの、黄瀬くんは?」
「さぁ…笠松たちといたと思うけど…あの様子じゃ、今は体育館にはいないだろ」
「わっ、分かりました、ありがとうございます!」
立ち上がって、体育館裏から駆け出す。
後ろから小堀先輩に「がんばれよ!」と応援されて、
私の足は、階段をかけ上がる。
階段を越えて君のもとへ
(自然と足は)
(あの場所へ)