その他


□山姥切国広と愛しい日々の話
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【主が出来た日】





 初めて"見た"ものは、若い女の驚いた顔だった。それもすぐに嬉しいと喜ぶものになってこちらが戸惑ったことを、今でもよく憶えている。身体を得て、写しだという自覚が色濃くなったからこそ比べられるのを厭う"心"が出来た。女の見る目が、途端酷く恐ろしいものに"見えた"のはきっと不安という人らしい"感情"だった。後になって名付けた、もしくは知ったその名も当時は分からず、胸の内に広がるものにはとても困惑した。迷うことも、躊躇うことも、人の身を得てはじめて知ったものだった。扱い辛い"手足"を動かして、本体でもある刀を握れば酷く軽いもののように思えた。今まで幾人もの人間に揮われたからこそ分かる使い方をすれば、すぐ前を歩く女の胴と首は返り血ひとつ飛ばさずに切り離されるのだろう。重たい命を容易く奪えるものとは思えない軽さの"俺"に、驚いたことは嘘ではない。しかしそんな無意味なことをする気も起きず、鞘に入れたままの刀を手に、俺を気にしてか時折振り返る女と、こんのすけと名乗った狐の後ろを歩く。地に足を付ける感覚も、何処か不思議な香りを胸いっぱいに吸い込むことも――なにもかもが、刀の身では味わえないことだった。
 二日程だろうか。そのぐらいの時を懸けて女――審神者は俺に様々な事を教えた。風呂や食事、寝るといった行為の中には理解の出来ないものも多かったが、別段"不快"になるものも無かったからこそ受け入れた。生きる上で必要かどうかを問われればまた別の話だということは当然審神者とて理解している。しかし、理解していてなお時間を割いたのならば、そこにはきっと"意味"があった。
 初陣は一人だった。人の身にもいくらか慣れたかとこんのすけには聞かれたが、それにはどうにも頷くことが出来なかった。いくつか名前を教えて貰った感情は、それでも未だ理解が追いつかないでいるものが大半である。刀を握る手は震えていない。しかし、審神者は震えながら俺の手を握る。安全な場所から指揮するという話は俺も一緒にこんのすけから聞いていた。だからこそ、何故、そんなにも不安そうな顔をするのかが分からずにいれば審神者は「必ず、かえってきてください」と言った。―――泣きそうな顔だった。「…行ってくる」憶えたばかりの、こういう時に使うのだと聞いた言葉を口にした俺を見送る審神者は、それ以来ずっと出陣に向かう部隊へと「行ってらっしゃい」を口にする。

 結果だけを言うならば、初陣は敗けた。折れることこそ無かったが重傷になって撤退するしか無い程に敵は強く、またそれ以上に…俺は未熟だった。傷ついた手足からは"血"が流れているし、何処か折れたのか足はうまく上がらない。刀を持つ手だけはどうにか死守したが、最早切り込むことすら難しい。ゲートまで歩くのも酷く億劫で、何度か挫けそうになった。それでも足を止めてしまえばもう二度と、"俺"はかえれなくなってしまう――そう思うと、寒くて仕方が無かった。「やま、んばぎり…!!」ゲートを潜って、血濡れの俺を見た審神者は服が汚れることすら厭わずに俺に触れた。元々襤褸だった布は土埃だって被っている。咄嗟に突き放そうとした俺を、怒ったような表情で審神者が抱きしめる。何をされているのか分からず戸惑う俺を、こんのすけは少し離れた場所から呆れたように見ていた。「よく帰ってきた、よかった、ありがとう、ごめんね…」俺の背へと腕を回した審神者は、思っていたよりもずっと小さく頼りない。混乱しているのか言っていることは滅茶苦茶で、顔だって見えない。けれどどうしてか、泣いているような気がした。刀という本性を持つ付喪神である以上、人の身よりは些か丈夫であることを審神者とて知っている筈だというのに―――痛かっただろうと、審神者は"俺"の心配をする。ぎゅうっと、胸が締め付けられるように痛んで、息苦しくなった。刀を仕舞ったことで開いた両手を、審神者の背へと回せば細い肩と同じように、俺の手が震えていることに気が付いた。

「…俺は、恐ろしいとは思わなかったし、今だって怪我の割に痛みは少ない。敵には勝てなかった。逃げることしか出来なかった。顔を見せることすら恥ずべきだと言われても、反論なんてしない」

 何故泣くのか。多くの感情を習ってもなお分からないその理由を遠回しに聞けば、審神者は何も言わずに俺の背へと回している腕に力を込めた。人の子らしい温かさが感じられて、今度はひどく、頬が冷たかった。"悔しい"気持ちが胸に湧き上がる。期待に応えられなかった自分が、酷く情けなく感じられて恥ずかしいとすら思った。けれど、そう。腕の中にある俺よりもずっと儚い命の温かさに"触れた"時に感じたのは―――"喜び"だったに違いない。

「かえってきてくれてありがとう。すごく、すごく怖かった。山姥切国広が、私の、私だけの"君"がかえってこないかもしれないって考えたら――恐ろしくて仕方が無かった。おかえりなさい。よくかえってきてくれた。ありがとう、私のもとへ、もどってきてくれて」

 ぽたぽたと、雨も降っていないのに審神者の肩を濡らすものは何なのだろうか。目が熱く、視界がぼやけて先程まで見えていた筈のこんのすけの姿すら捉えられないのは、どうしてなのだろうか。ぎゅうぎゅうと、また胸が苦しくなる。顔を上げた審神者を見て、その苦しみはまた大きくなる。"心配"された。言葉にすれば単純なそれすらも、刀であった頃は無縁に等しかった。だからこそ、審神者が震える理由も、涙を流す理由も俺は理解出来なかった。しかし。しかし、だ。全てが"俺"を思う心が故のものなのだとしたら―――――。
 "嬉しい"という感情で胸がいっぱいになって、死んでしまうのかもしれない。そう錯覚するほどに苦しくて、それでも、不快と思う心は無くて。顕現されたばかりの頃に見たような驚いた顔をした審神者が俺を手入れ部屋へと手を引いて導けば、こんのすけがすぐ傍へと近寄ってきたのが気配で分かった。「そろいもそろって涙脆いものですね」冷めているとも取れる声に、審神者は何も返さない。しかし俺は、聞きなれない"涙脆い"という言葉に――妙な程に冷たい自分の頬を空いている方の手で触った。雨も降っていないのに塗れている頬は、今は背を向けている目の前の審神者と同じなのだと、すぐに思い当ったのは"経験"故なのかもしれない。恥かしさで死んでしまいたくなるというのも、不本意ながら人の身を得て初めてのものだった。
 こんのすけ指導の下で手入れを受けている間も、審神者はこちらを心配し続けていた。むず痒くなるほどに"心"の籠った目に見つめられるのには慣れていないせいもあってか、少しだけ身の置き場に困った。血が消えて、不自然な方向に曲がっていた足が元通りになって、土っぽさを感じていた服も、爪に入った泥も元通りになった頃。外の日差しは既に傾いて、手入れ部屋を温かい色で染めていた。こんのすけはいつの間にか消えていたが、気配からして近くには居るのだろう。手入れ道具を片付けた審神者が、俯いたままで「取り乱してごめん」と告げる。旋毛へと視線を落としたところで、気配なんてものは読めない審神者は俺が見つめていることに気付かない。気にしていないと俺が告げたところで、審神者は顔を上げないままでぽつぽつと言葉を繋げていく。"俺"が唯一無二であるということ。山姥切国広は初期刀として選ばせて貰えるだけの数があって、多くの本丸で顕現されている。しかし、目の前の小さな審神者を支えることの出来る"俺"は、言葉を交わした"記憶"を持つのは――ただ一人しか居ない。

「審神者、…いや。主。ただいま」

 比べられるのは俺が写しだから仕方が無い。しかし、それでも、卑屈になってしまう程には気にしていた。比べられ続けるということは、思っている以上に辛く俺の"心"を引き裂いた。国広の最高傑作と言えど、腐る程に俺たちは存在している。代わりなんて、いくらでもいるのだと思っていた。しかし目の前の審神者――主にとっての"山姥切国広"は"俺"一人しか居ないのだと言う。目から鱗が落ちるとはよく言ったものだと思うが、頭の中で何かが崩れたのは確かだと思う。こちらが驚く程の凄い勢いで顔を上げた主が固まったままに俺を見る。間抜けな顔をしていると俺が笑えば「今、主って…」と、主が半信半疑のような態度で口にする。「なんだその顔は。……口を半開きのままはやめろ」笑う俺を信じられないものでも見るような顔で見る主の頬についたままの涙を痕へと指を這わせば、もう乾いているからか存外柔らかい頬の感触しかしなかった。驚いた顔は、主の最も見慣れた顔だと、その時ふと思ったことに意味は無い。



16.1.1
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