短編集

□その感情は初恋と名付けられた
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初めて好きになった相手だった。
 

これほどまでに、自分が恋焦がれる相手がいるとは思わなかった。
 

彼は、とても完璧に“近い”人だった。

 




初めて会ったのは、一年生の後半。
 
廊下でふざけて遊んでいた男子にぶつかった。
 
その時は、日直で移動教室の黒板を消していたため、私は一人で廊下を急いでいた。
 
次の授業まで5分なかったからだ。
 
もう一人の日直の男子がいたが、彼は元々真面目という類ではなく、私も人に対して意見できるほど強くもなかった。
 
自業自得だと思った。
 
別に彼が悪いとも思わなかった。
 
友人は彼に意見しようと息巻いていたが、私はそれを制した。
 
だって、どうでもいいと思っていたから。
 
彼のことを。
 
私はどちらかと言えば、異性に対して興味はなく、どちらかと言えば苦手だった。
 
理由を聞かれても、思春期特有の男子生徒の行動が理解不能で、おふざけが嫌いだったからとしか言えない。
 
ぶつかった男子は私には目もくれず、地面に接触した缶のペンケースからシャーペンや消しゴム、定規など中身が飛び出した。
 
尻もちをついた私は茫然と走り去っていく男子とその友達を眺めていた。
 
何、ぶつかってんだよー、とふざけた声がしたけど、どうでもよかった。
 
お互い怪我しなくてよかったなぁ、とぐらいにしか思えなかった。
 
次の授業まで時間がない。
 
そう思い立って、慌てて自分の筆記用具をかき集める。
 
しかし、消しゴムだけがなかった。
 
板書する際に間違えやすい私にとって、それは死活問題だった。
 
血の気が引いた。
 
精神的に弱い私は、パニックになるとよく体調を崩しやすい。
 
現在、胃が冷えるような感覚に陥って、悪心がする。
 
友人がいないわけではないが、おこがましいと思って借りられない。
 
だが、このままサボるという選択肢はない。
 
次の授業の後は、また移動教室だ。
 
黒板を消す係は私以外にいない。


「この消しゴムであってるかな?」

「……ぇ、あ、すみません。ありがとうございます」

「いや、それより怪我は?」

「ありません。……すみません、ありがとうございました」
 

声が震えた。
 
差し出された手は女子のものより少し大きく、皮膚が硬くなっているようだった。
 
なにか、スポーツをしているのだろうか。
 
そんなことを頭の片隅で考えながら、私は不安でいっぱいだった。
 
声からして、スラックスからして、彼は男子生徒だ。
 
聞いたことのない声は、他のクラスだからだろうか。
 
申し訳なさでいっぱいだった。
 
顔をあげられず、恐る恐る彼の手から消しゴムをもらう。
 
私の声は小さかったと思う。
 
彼の声は落ち着いていたと思う。
 
私はそのまま彼の顔を見ずに、走り去った。
 
親切にしてもらったのに、なんていう態度だろう。
 
だけど、彼と同じクラスじゃないから、マンモス校であるこの学校はクラスがたくさんあるから、二度と会うことはないだろう。
 

そう思って。

 



二度目に彼に会ったのは、クラスマッチだった。
 
バスケ部だという同じクラスの男子と同じく彼はコートにいた。
 
噂に聞けば、二人とも一軍でレギュラーだという。
 
帰宅部である私はよく知らないが、とても有名で、凄いプレイヤーらしい。

視界の中で、綺麗な放物線を描いたボールを確かに見た。
 
統率のとれたチームメイトを動かす彼を見た。
 
とても綺麗な赤だった。
 
友人から聞くと、彼は赤司様というらしい。
 
宗教家か何かと問えば、突っ込まれたが、お金持ちの息子だという。
 
副キャプテンをしていて、学年一の成績で、スマートで、クールな人らしい。
 
私は、綺麗で、完璧な人だと思った。
 
そして、同時に、私はこんな人を好きになることはないのだろうと思った。

 



三度目に彼に会ったのは、一年後、バスケ部が活動している体育館だった。

 同じクラスの黒子くんのノートの返却を担任が忘れていて、小テストを近々行うと脅していたこともあり、早めに渡した方がよかったのだ。
 
初めてバスケ部の体育館へ向かった。
 
そこに、影の薄い少年をみつけることができなかった。
 
だが、大柄の少年と向かい合う赤司様くんを見つけた。
 
不穏な空気だった。
 
私は声をかけることもできず、彼らの姿を見ていた。
 
赤司様くんが押されていた。
 
部員も彼が負けるとは思っていなかったのだろう。
 
動揺が見て取れた。
 
膝をつく赤司様くん。
 
そんな彼を見下す、大柄の少年。
 
その後、何が起こったのかわからなかった。
 
ただ、赤司様くんが勝ったのだと思った。


「僕に逆らうやつは親でも殺す」
 

このセリフを聞いて、私は思った。
 
彼は完璧に“近い”人なのだと思った。
 
いや、完璧でありたいと思うような人だと知った。
 
そのときからだと思う。
 
私が彼のことを目で追うようになったのは。

 



四度目に彼に会ったのは卒業式の日だった。
 
なんとなく作ってきたマフィンはクラス全員分。

男女共に喜ばれた。

いい思い出になったと思う。

だけど、影の薄い二年から同じクラスの少年には渡せていなかった。

ときどき学校に来なくなり、心配もしていた。

だけど、特別仲のよかったわけでもないクラスメイトにあれこれ詮索されるのも嫌だろうと、自己保身に走っていた私は最後だからと、黒子くんを探した。

バスケ部だったから。

そういう理由で専用体育館に向かった。

そこにいたのは、赤司様くんと、大柄の少年、一年生の時に同じクラスだった色黒の少年、眼鏡の少年、チャラそうな少年の五人だった。

殺伐としているわけではない。

和やかなわけでもない。

何とも言えない雰囲気に、私は黒子くんがいないか目を凝らした。

キョロキョロしていた私を不審に思ったらしい赤司様くんが、声をかけてきた。


「何か用か?」
 

冷たい声色だった。
 
なのに、カッコいいと思った。
 
完璧であろうとする彼が、冷静であるように見えるという事実が。
 
実際に冷静であったのかもしれない。
 
それでも、私の中では彼は完璧であろうとする人間だったから、アンバランスで、滑稽で、愛おしいと思った。


「……黒子くんっていますか?」

「見ての通り、彼はいないよ」

「そうですか。すみません、ありがとうございました。失礼します」
 

影の薄い少年の名は、彼らの中では禁忌のようだった。
 
特にチャラそうな少年が私を睨んできたのは、さすがにビビった。
 
赤司様くんは特に気にしていないようだった。
 
私は踵を返して、黒子くんを探す旅に出た。





五度目に彼に会ったのは、黒子くんと一緒にいるのを見かけたときだった。


「黒子くんと赤司様くんって似てるね」

「ぇ……、どのあたりがですか?」

「バスケが好きなとこ」

「…………そうですか」
 

変な黒子くん。
 
私は正直に答えただけだった。
 
だって、完璧であろうとする彼の選択肢はバスケだけではなかったはずだ。
 
他の運動部でも、文化系の部でもよかったはずなのに、彼はバスケを選んだ。
 
バスケのみに集中した。
 
それ、すなわち、彼はバスケが好きだということではないだろうか。
 
完璧であろうとするがするが故に、好きなもので一番になりたいと思うのは必然だ。





六度目に彼に会ったのは、WCの決勝戦だった。

彼が泣いていた。

彼が笑っていた。

彼が負けていた。

彼が完璧から外れてしまった。

でも、どこかすっきりしているように思えた。

彼は大人ではなく、少年だった。

ただ、それだけだった。

完璧であろうとしていた。

そして、次も完璧であろうと、彼なりに努力するのだろうと確信した。





最後に彼に会ったのは、同じ中学だった同級生とバスケをしているときだった。

彼が笑っていた。

楽しそうにバスケをしていた。

それに、安堵した。

そこにいたのは、完璧であろうとする人間ではなく、友人と共にいるバスケが好きな少年だった。

そのとき、何となく初恋は終わったと思った。

彼への興味関心が薄れたと思った。

楽しそうにバスケをしていた。

私はそんな彼らを静かに見つめ、すぐに遠ざかった。

彼らは私を気に留めることなく、楽しそうだった。

私はそのことに安堵する。

ずっと、このまま、赤司くんに寄り添っていてあげてほしい。

そう心の中で呟いた。





もう二度と会うことはない。

失恋も成就もしなかった、静かな初恋。

これを恋と呼んでいいのか分からない。

だからこそ、不確かな感情を私は初恋と名付けよう。

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