短編集
□中途半端な忘れ物
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――純粋に素敵な人だと思った。
深い蒼の瞳と長い髪。
透き通るような白い肌。
大きな手のくせに、繊細なものを作り上げてしまう器用さ。
役割のために、他人に疎まれるようにわざと冷たい態度をとる優しさ。
素直になれず、言いたいことをうまく伝えられずもどかしそうにしている表情。
傷つけてしまったのではないかと、不安がる表情。
私が無茶をして眉を吊り上げ、
怒りをあらわにした表情。
生真面目で、仕事熱心な姿。
そんな彼は本当に素敵な人だと思う。
「コーヒーを置いときますね」
黙々と机上で作業をする男に対して、女が声をかけた。
だが、男はそれに答えることなく、手を動かしたままだ。
女はそれについて咎めることなく、トレイをテーブルに置くと、読みかけの本を手に取り、ソファに腰掛けた。
その本には、文章が長々と書かれてはおらず、片面には写真、片面には短い文章が綴られている。
写真には女は映っておらず、彼女の友人や、作業台で仕事を続ける男ばかりだ。
それを眺めながら、女は穏やかな微笑を浮かべる。
楽しそうに笑う彼らを撮ったのは彼女だった。
愛用のカメラで、撮りたいものを撮りたいときにとる。
自称カメラマンである彼女は、好きなものを撮った写真を選別し、いつでも邂逅できるように本にしていた。
その時の様子や感想を一言二言添えて。
一つの部屋に男女がいるというのに、互いに干渉せず、やりたいことをしていると、ドアがノックされた。男が入るよう促すと、そこには一組の壮年の男女がいる。
悲しげな表情の二人は男に懐中時計を渡した。
それは一人娘のものであるようで、マフィアの銃撃戦で亡くなったと淡々と告げる。
悲痛な面持ちの夫婦から男は時計を受け取った。
憔悴しきっている夫婦の目は赤い。
ろくに彼らの顔を見ていない男が気づいているかは不明だが、女はそのことに気づいていた。
沈黙が降り積もる。
夫婦は男に時計の修理を頼み、一礼すると、踵を返した。
「娘さんの写真をお持ちでしょうか?」
「え……?」
「あなたは?」
今まで沈黙を貫いてきた女の声に夫婦はやや警戒するような声色で返した。
作業をしていた男はちらりと視線を寄こしたが、すぐに時計の修理を再開する。
「失礼しました。ここで居候をしております、自称カメラマンの名前です」
「はぁ」
「もし、よろしければ、娘さんの写真をこのように製本いたしませんか?デザイン等アレンジできますが」
女が夫婦に見せたのは先ほど彼女が見ていた手作りの本、もといアルバム。
写真はその雰囲気に合わせて切り取られたり、ページはテープやシールで飾り付けされているものもあれば、シンプルに貼られ、メッセージも黒字で書かれているものもあった。
初めは胡乱げに女を見ていた夫婦だったが、女の了承をとり、夫婦でそのアルバムのページをめくる。
しばらく、眺めていた夫婦はパタンと、アルバムを閉じて、震える声で女に言った。
「ぜひともお願いします」
「……ありがとうございます」
女は何も言わずに、穏やかな表情で彼らを見送った。
「どうしてお前は面倒事を自ら背負いこむんだ」
「モンレーさんが仕事を手伝わせてくれないからですよ。んー、ここはこっちかな」
呆れたように溜息をつきながらコーヒーをすすり、一息つく男と対照的に女はいくつもの柄物のテープを見比べながら、アルバムにあて、製本を続けている。
楽しそうに、そして、慈しむように一枚一枚の写真を見つめる名前。
「意味がわからん。他人の写真など見て何が楽しい」
「……強いて言うなれば、愛されているんだなって」
「…………いずれあの夫婦にも代わりの娘が現れる」
「そうですね。それでも、この子がいたという事実は変わらず、この子という存在はあのご夫婦の記憶と、この本の中に存在し続けるんですよ。そして、製本に関わった私の記憶にもその断片は存在し続けます。この子の代わりなんて誰にもできませんよ。例え、同じご夫婦の娘さんという役割でも、結果は異なるでしょうし。もし、新たな娘さんのアルバムをつくったとしても、同じものができるわけじゃありませんよ。積み重ねる時間が全く同じものになることなんてないですから」
そう言って名前は笑った。
出来上がったアルバムを受け取りにきた夫婦は泣きながら、アルバムを眺めていた。
そこには新しく家族の一員となった、アルバムにある娘の代わりとしてやってきた少女もいる。
複雑そうに、されど、どこか懐かしみ、嬉しさを感じさせる表情を夫婦は浮かべ、少女はそんな両親の語りを頷きながら聞いていた。
一通り目を通し、不備がないことを確かめた後、夫婦は名前に何度もお礼を言い、時計塔を去った。
――変わった女だと思った。
平凡な容姿に、年不相応である本格的なカメラ。
幼さの残る容貌をしているというのにどこか大人びた表情。
よく表情が変わるというのに馴れ馴れしさを感じさせることがなく、どこか一線引いたような言動。
赤の他人に気を遣い、自分の時間を浪費する性格。
自分の行いがどれだけの影響をもっているか無自覚という鈍さ。
他人の変化には本人よりも先に気づくという鋭さ。
カメラのシャッターを切るときの真剣な眼差し。
望み通りの写真ができたときの嬉しそうな表情。
本当に変な女だと思う。
ただ、そんな風に思っていただけだった。
それ以上も、以下の感覚もなく、同じ時間を同じ空間で、違う行いをしながら過ごしてきた。
時々、そこにもう一人の余所者や、イカレた女王、迷子の同僚が混ざってくる。
可でもなく、不可でもないそんな曖昧な時間を過ごしていた。
だからこそ、か。
“気にも留めていなかったもの。それが日常――、っていうものなんですよ。”
そう言った女の表情は曇りもなく、晴れやかでもなく、曖昧な、複雑な表情だった。
その時、尋ねたかった言葉は喉の奥で掻き消えた。
なぜなら、女の瞳はここにはいない“何か”、いや、“誰か”を映していたからだ。
互いのことを多くは語らない。
雑談もほとんどせず、事務的な言葉ばかり。
そんな私たちの関係を、もう一人の余所者はあり得ないと断言していた。
イカレた女王はつまらないと吐き捨て、迷子の同僚は意味深な笑みを浮かべた。
特に呼称などない関係。
曖昧な関係。
それでも、同じ空間を、時間を共有してきた。
口に含んだコーヒーは昔から慣れているはずの味。
だというのに、物足りなさを、変化を感じ取ってしまう。
時計の針音のみが空間を支配する。
あの時も、針音のみが存在を主張していた。
だが、その中に控えめな衣擦れや、くぐもった笑い声が確かにあった。
時計屋としての仕事の邪魔にならないように配慮をしながら、自分の好きなようにここで過ごしていた女。
ソファに置いてあるブランケットは元々この塔にあったものだが、それを丁寧に畳んだ者はもう、この場にはいない。
その上に一冊の本が置いてあった。
見覚えのあるそれを手にとり、ページを捲れば、役持ちや役なし、もう一人の余所者、そして、私自身が映っていた。
いつの間に撮ったものだろうというものから、懐かしさを思い起こさせるものまで様々だった。
写真の隣には女特有の、そしてあいつらしい色使いに気を遣ったメッセージが書いてある。
だが、どのページにもなかった。
女の姿は。
いつも撮る側で、決して撮られるということはなかった。
時計屋は本を大事そうにテーブルに置き、僅かに眉尻を下げながら、ぼそりと呟いた。
「いっそのこと、これごと行ってしまえばよかったんだがな」
少し震えた声を指摘するものは、もういなかった。
中途半端な忘れ物