短編
□Look at me with your eyes...
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広い背中が纏う、深緑色の軍服ーーー。
まただ、と心の中で呟く。
また、大好きな人が戦争に行ってしまう。
今度は、クロトさんがーーー。
「…絶対、帰ってきてよね…。」
頭の中が悲しみでぐちゃぐちゃになって、出てくるのはそんな子供っぽい言葉だけ。
「当たり前だ。」
いつも通りの揺るがない口調は、けれども声の主の表情がわからないため、不安をかき立てるばかり。
また、あの時のようにーーー。
隣では、ちはなが泣いている。
ああ、そうか。この子にとっては初めてのお見送り。
昔の自分の姿が重なって、見ていることができなかった。
クロトさんのいなくなった家で、それでも時は緩やかに、残酷に過ぎていく。
どれくらいの月日が経ったのだろう。
私はあの時と同じように窓辺に立ち、外を眺めている。
そうして、いつ帰るかもわからない人を待ち続けている。
雲一つなく晴れ渡った空が、少し憎たらしい。
この空の下のどこかにいるはずの人は、どうして私の隣だけに居てはくれないのかとーーそう思う。
「姉様…!!姉様…!!!」
慌てた様子のちはなが、ノックもせずに部屋に飛び込んできた。その表情が喜びに満ちているのを見て、甘い期待が胸に広がる。
「兄様が、帰ってきました!」
待ち続けた言葉が、部屋いっぱいに響きわたる。
弾かれたように立ち上がって、今すぐにでも会いたい。
その衝動を、天の邪鬼な自分が止めに入った。
「すぐに行くから…、先に。」
そう言ってちはなを先に行かせる。
とたとたというちはなの駆けていく音が、だんだんと小さくなっている。
帰ってきたーーー。
クロトさんは、帰ってきたのだ、と。
じんわりと温かい喜びが、胸に広がりあふれていく。
けれども一方で。
冷静になった頭が、不吉なことばかりを告げる。
怪我は、ないのだろうかとか。
女の私が知らない戦場は、しかしとても残酷な場所と聞く。
彼の心が壊れてしまっていたら?
あの笑顔を、もう二度と見られないとしたら?
そうした不安の渦で胸が張り裂けそうになる。
「クロトさん…!!」
不安を打ち消すようにこぼした名前が、静かな部屋に馴染むことなく漂う。
早く会いたいーーー。
早く会って、抱きしめて、その存在を腕いっぱいに感じたい。
あの温もりに、あの声に、あの髪に、あの赤褐色に輝く瞳に。
触れて、いっぱいに、感じたいーーー。
後に当主になるだろう者の帰還に、家の人が全て玄関先に集まってきたらしい。
人が多くて、騒がしい。
「クロトさん…?」
背の高い背中が見える。
人をかき分けて、その姿を見ようとする。
あまりのことに、皆我を忘れたようにはしゃいでいる。
深緑色の、その背中。
声に気がついたのか、こちらに振り向こうとする。
紫紺の髪が、ゆらりと揺れる。
振り返った顔に輝くのは、翡翠色の左眼ーーー。
軍服の似合わない、穏やかな微笑が私に向けられる。
「……白夜、兄様…っ!?」
思わず叫び声をあげそうになるのを、必死でこらえた。
「…ただいま、あまの…。」
私に歩み寄る、甘く優しい声ーーー。
けれどもそれは、私の求めていたモノとは違っていた。
「随分と、待たせたね…。」
頬に触れようとする白く大きな手を、私は拒絶する。
愛おしくて愛おしくて、かつては狂おしいほどに求めていたその手も、今は要らない。
私が求めているのはただ一つーーー。
「クロトさんは……何処?」
全身を襲う寒気に、声が震えていた。
身体ががたがたと震えて、芯を失い崩れそうになる。
強い、喪失感。
胸を切り裂くように、激情が私の心を蝕む。
あの人への慕情が、熱く熱く、私の傷口を焼く。
「姉様、何を言っているのです…?」
兄様に抱きついたちはなが、不思議そうな声を出す。
「ちはな、違うの…その人は…。」
頭の中に鋭い金属音が響いて、私の声をかき消してしまう。
違う…、違う……っ!!!
違和感に空っぽのはずの胃の中のモノがせり上がってくる。
「どうしたんですか?姉様…。」
ちはなが振り返る。
「ちゃんと、白夜兄様が、帰ってきたじゃないですか…。」
ちはなによく似た萌葱色の髪、翡翠色の瞳。
けれども、そこにいたのはちはなではなくて。
幼い日の、自分だったーーー。
「………っ!!!」
力の限りあげた、自分の悲鳴で目が覚めた気がした。それが夢の中のものなのか、それとも実際に叫んでいたのかはわからない。
嫌な夢を見た。
クロトさんが出征して、帰らぬ人になって。
代わりに白夜兄様が帰ってくる夢ーーー。
乱れた息を落ち着かせながら、夢とわかった今でもこみ上げてくる喪失感に、鳥肌が立つ。
いても立っても居られない気持ちのまま、部屋を出る。
気がつくと、私は息を切らしながらクロトさんの部屋に来ていた。
「クロトさん……。」
時計の音しか聞こえない静かな部屋の中、私は彼の名前を呼ぶ。
返事なんてものは、期待していない。
こんな夜もすっかり更けた時間、クロトさんはぐっすりと眠っているに違いない。
それでいい、これからする私の懺悔など、形ばかりの自己満足でしかないのだから。
返事など、求めてはいけない。
一歩、彼の方に近づいた。ぎしり、と床の軋む音がする。
「……ごめん、なさい…。」
震えた声が、辺りの静寂に飲み込まれる。
時計の音が一際大きく聞こえた。
「……ノックをするんじゃないのか…?」
いつもよりも穏やかなクロトさんの声が、私の胸に突き刺さった。
驚きのあまり、息が止まりそうになる。
暗い部屋の中で、赤褐色の瞳が輝いているのが見えた。