ありすのお部屋

□花埋みの里
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風もないのに、虎徹が目を落としている漢籍の書物が、はらはらと捲れ上がった。
「……」
形の良い眉を少しだけひそめ、虎徹は先程目を通していた部分まで戻すと、途端、再び風に吹かれたように、書物がはらはらと捲れあがる。
まるで虎徹を拒絶するような動きに、虎徹は文机に座したまま、ゆっくりと簀子縁の方に視線を向けた。
小じんまりとした簡素な邸内の、あまり手入れの行き届いていない中庭には、大きな桜の木が満開の花を咲かせている。
薄紅の可憐な花は、煙るように咲き誇り、質素な中庭を幻のような美しさに見せていた。
風もなく、空はどこまでも青く澄み渡り、眩い光に満ちあふれた、静かな春の午後である。
その白く柔らかな光は、質素に造られた虎徹の私室にも満ち溢ていた。
京の都の外れに、人目を忍ぶように建てられたこの邸内には、人の気配など何もなく。
あるのは時折微かに聞こえる、さやさやとした草の音や。
中庭の小さな池に住まう、鯉の跳ねる湿った水音だけ。
まるでここだけ、この世界の全ての喧騒から忘れさられてしまったように、邸内は柔らかな静寂に包まれていた。
簀子縁に虎徹は向かい、その空間へ声をかける。
「……おいおい、そこにいるんだろ?悪戯はそれくらいにしておいて、出てこいよ」
すると簀子縁から、さぁ……と柔らかな風が巻き起こった。
くれないの花びらが舞い上がり、ゆっくりと人の形をとってゆき、やがてそれは、一人の少年の姿となる。
光り輝く黄金の髪が、印象的であった。
あどけなさを残す容貌に、大きな翡翠の瞳が美しく輝いている。
柔らかな口唇の端を吊り上げて、バーナビーは悪戯っぽく微笑んだ。
「こんな天気のいい日に、どうして部屋に閉じこもってるんですか、虎徹さん」
雪のように真白な狩衣と、朱色の指貫を身につけたバーナビーは、くすくすと忍びやかに笑い、簀子の端にちょこんと腰かけ、背中ごしに虎徹を見た。
「そんなに書物と睨めっこばかりしてると、早く老けますよ?おじさん」
笑いながら、バーナビーは体をふわりと空に浮かべる。
ふわり、ふわりと浮かぶバーナビーの姿は、まるで春の宵夢のように、不思議な光景である。
「うっせ、ほっとけ。まだ、調べものの最中だからな。……もう少し大人しくしてろよ、バニー」
虎徹は再び文机に置かれた漢籍の書へと視線を戻そうとすると、途端それがふわりと空に浮かび上がった。
ふわふわ、ふわふわとバーナビーと書物が空に浮かぶその不思議な光景に、まったく動じることのない表情で、虎徹は一つ小さなため息をつく。
『……』
小さく呪を唱えると、書物は再びパサリと文机の上に落ち、もう再び浮き上がることはなかった。
「無闇にその力を使うんじゃねぇって、何度も教えたよな?バニー」
形の良い眉をひそめ、諭すように告げる虎徹に、バーナビーはちょっと決まりの悪い表情を浮かべ、ふわりと虎徹の隣へ舞い降りた。
文机の前で凛と姿勢を正す虎徹の横に、ぴったりと寄り添うように座ると、虎徹の袖を引っ張りきつく睨み見上げる。
「何度も言ってますが、僕はバニーじゃありません、バーナビーですっ」
きゅっと口唇を引き結び、拗ねたような顔で、プイと不機嫌そうに横をむいた。
「虎徹さんの仕事が忙しいのだって、知ってますよ。でも……」
瞳を伏せ長い睫毛を二、三度ぱちぱちとさせ、バーナビーは淋しげにぽつりと呟く。
「バニー」
バーナビーのあまりに淋しげな声に、虎徹が穏やかにバーナビーの名を呼ぶ。
「……そうだな、バニー。俺が悪かった。ここんとこ、バニーちゃんをすっかり放ったらかしだったもんな……」
虎徹はバーナビーの、翡翠の瞳をやんわりと見下ろして、ぽんぽんと頭を柔らかく撫でる。
「ああ、そうだ。今日はこれからお前を、内裏に連れていってやるか。どうせ、アントニオのやつに呼ばれてるしなぁ。一緒に、行くか?」
「本当ですか?」
途端、バーナビーの表情に花が綻ぶような綺麗な笑顔が浮かんだ。
「内裏に、連れていってくれるんですか?……本当に?」
「……ああ。内裏なら広いし、バニーも退屈しねぇだろ」
「行きますっ!」
とん……、と身軽に飛び上がると、バーナビーは髪を揺らし、ふわりと空に浮かぶ。
「僕、牛車の用意をしてきます。虎徹さんも早く、支度してくださいねっ!」
嬉しそうに笑い、しなやかな長い手足を伸ばして、バーナビーは簀子縁から飛び去ってゆく。
元気よく去っていったバーナビーの後ろ姿を、苦笑を深くしながら、虎徹は見つめていた。
ほんの少し前までは、その手も足も、まだ幼い子供のそれであったのに。
バーナビーは瞬く間に、健やかな若木が大空に伸びゆくように、大きくなった。
中庭で降り落ちてゆく桜のくれないを見つめ、虎徹は静かに瞳を揺らす。
……いつの間に。
いつの間に、彼はこんなにも大きくなってしまったのだろうか。
だが、それもそのはず。
バーナビーを『式神』として迎え、もう五度目の春を迎えるのだから。
緑の若芽も、五年の歳月ではすくすくと成長し、しなやかな若い木にもなろう。
それがましてや、『鬼』の身であれば、尚のこと。
くれないの花びらを見つめる、虎徹の瞳が切なげに揺れた。
刻は、近い。
もう間もなく。
バーナビーにほどこした、虎徹の呪が解ける。
そうしたら、バーナビーは……。
はらり。
桜が、くれないの色を落とす。
静かに、優しく。
花びらが、舞っている。
くれないの、色。
くれないの、花。
あの時のように、あの時と同じくれないが、舞い散っている。
口唇を強く噛み締めて、虎徹は瞳を揺らす。
どんなに力のある陰陽師でさえも、星の流れは変えられない。
ましてや、刻の流れを止めることなど、できるはずもなく。
だけど、せめて。
せめて、もう少しだけ。
くれないに舞う淡い花びらを見つめ、翳りを帯びた、痛むような瞳をそっと伏せる。
どうか彼を、連れていかないで……。


つづく
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